父のレンズを使った、ソフィアのこだわり
父と娘、それぞれ異なる色の“孤独”が、交流の中で癒されていく過程を見つめた『SOMEWHERE』。先ほど、ソフィア・コッポラ監督の外見(映像)と中身(心情)のギャップについて述べたが、本作でも興味深いアプローチがとられている。
まず、スティーヴン・ドーフとエル・ファニングが父娘をスムーズに演じられるように、撮影に入る前の段階で共に過ごす時間が与えられたそう。時には、学校が終わったエルをドーフが迎えに行くこともあったそうだ。また、ドーフは実際にホテル暮らしを始め、役作りを行った。さらに、即興芝居を積極的に取り入れ、ナチュラルな対話が行えるような環境づくりに腐心したという(そのため、脚本は40ページほどの短さだったとか)。
映像面においては、ソフィアの父フランシス・フォード・コッポラが『ランブルフィッシュ』(83)で実際に使用したレンズを用いて、撮影を行ったとのこと。これは、彼女がどこかノスタルジックな、古ぼけた質感を映画に付加したいと考えていたからだという。
『SOMEWHERE』(c)2010-Somewhere LLC
物語の構造として面白いのは、ジョニーの職場である撮影現場を映さないことだ。あくまでメインの舞台はジョニーが暮らすホテルで、それ以外でも「インタビューに答える」「特殊メイクのための石膏をとりに行く」といった、現場以外での俳優の姿に終始している。日常と仕事の曖昧な境界というか、ジョニーが「演じる」ことをほぼ行っていない瞬間(だけれど完全にリラックスはしていない)が描かれることで、行き場のない孤独が静かに広がっていくよう。
特に、顔に石膏を塗られたジョニーが、そのまま放置されるシーンが印象的だ。自分であって自分でない仮面をかぶり、人前に出るが、人として扱われない。この状態は、スターとして名声を得ながらも、コンテンツとして消費されるジョニーの状況を、アイロニカルに映した見事なシーンだ。ソフィアならではの「孤独の表現」の上手さが凝縮されている。
ちなみにこの場面は、『エレファント』(03)や『ゾディアック』(07)など、ガス・ヴァン・サント監督やデヴィッド・フィンチャー監督とのコラボレーションで知られる名カメラマン、ハリス・サヴィデスの手腕も大きかったという。不安や虚しさを画面に息づかせるため、じっくりと腰を据えてジョニーを見つめる演出は、観客とジョニーの呼吸を同調させていくようだ。ソフィア作品の常連である編集のサラ・フラックは、電話が鳴る音などを追加し、より「忘れ去られた」感を強めたそう。スタッフワークの面からみても、重要なシーンと言えるだろう。