2021.02.23
本当のことしか演じられない俳優たち
だが「そして映画はつづく」に収録された撮影記を読むと、これが傑作を撮るための監督の横暴な振る舞いだとは、簡単に片付けられないことに気づく。実際、この少年の号泣シーンにかぎらず、さまざまな場面で、監督たちは素人俳優たちに演技をさせるトリックを行なっている。それは彼らを追い込むためというよりも、彼らに演技をしていると思わせずに演技をさせるためのものだ。
たとえばアハマッド少年の家の庭で、母親が懸命に洗濯をしている場面がある。その場面で、監督はアングルを変えて撮り直すため、母親役の女性にさっき洗っていた衣服をもう一度洗濯するよう頼むのだが、思わぬ拒絶に遭う。女性は、再び服を洗うなんて絶対にできないと言い張るのだ。さっき洗った服はもうきれいになったのだからもう一度洗う必要はない、洗濯をするなら汚れた衣服を持ってくるべきだという彼女の主張はたしかに正しい。けれどこれは映画なのだ。同じ場面で、カットが変わった途端に別の衣服を洗っていたらおかしいではないか、頼むから同じ服を洗ってくれ、という懇願は彼女には届かない。何度交渉しても埒が開かず、困った監督たちは、仕方なく先ほど洗ってきれいになった衣服をわざと汚し、それを洗濯するよう頼んでみる。女性は、呆れながらもしぶしぶ洗濯を始めてくれたという。
このエピソードは、決して母親役の女性に特有のものではない。演技の経験がなく、またテレビや映画にもあまり慣れ親しんでいない村の人々にとっては、嘘の行為をすること、さらにそれを何度もくりかえす映画撮影が、馬鹿げたものに思えてしかたないのだ。キアロスタミ一行は、その事実を、オーディションの段階から実感していく。
『友だちのうちはどこ?』(C) 1987 KANOON
子どもに「この消しゴムを貸してと友だちに言われ、いやだ、と断る演技をしてみて」と頼んでも、当の子どもは「いやだ」というセリフがどうしても言えない。理由を聞けば、「だって消しゴムくらい貸してあげるのに」と返ってくる。彼らには「たとえば/……のかわりに/想像して/こうだと思って」という遊びは通じない。彼らに演技をしてもらうには、すべて本物、真実でなければいけないのだ。
少年が犬を怖がる芝居がうまくできなければ、あれは本当に恐ろしい犬で人を噛み殺すかも、という嘘を吹き込み、彼の瞳に本物の恐怖を宿らせる。思案にふける芝居が難しければ、算数の問題を出し考えこむ姿を撮ってみせる。子どもだけではない。ある老人に、階段を登り息を切らすようお願いしたが、演じる当人は「階段くらい息を切らさずに登れる」と譲らない。そこで彼を騙し、本番前に駆け足で階段を登ってもらい疲れさせたところをまんまと映してみせた。それがキアロスタミ映画における、本物らしさをつくりだすマジックだ。
この撮影記録を書いたプールアハマッドは、映画の作り手は、仕事に夢中になるあまりときに周囲の人間を「映画づくりの道具」としか見なくなってしまう、と反省の弁を書いてもいる。自分たちの弱さゆえに、子どもの映画をつくっていながら、子どもを悲しませてしまうことがあると。
監督本人がどう考えていたのかはわからない。だがこの数年後、キアロスタミは同じマスレ村(映画のなかではコケル村)で『そして人生はつづく』(92)を撮影し、そこにかつて階段を駆け上がらせられた老人を登場させている。老人は監督役の俳優に向かって「映画では実際以上に年寄りふうに映されてしまった。あんなのは公平じゃない。こんなことが芸術なのか?」と文句を言ってみせる。その様子はまるで前作での仕打ちの復讐をしているよう。ただしそのセリフはすべてキアロスタミの指示によるもので、演じた彼自身はセリフを言うのを渋っていたというから、事態はより複雑だ。