抑圧を解放せよ、作品の先見性
改めて気付かされるのは、『マルコヴィッチの穴』という作品の普遍性と先見性だ。一見すれば不条理劇のようだが、描かれていることは、人間のアイデンティティと欲望の問題。つまりは、「自分自身とは何か」ということである。
本作は1999年に製作されているがゆえ、20年以上が経過した今観ると、劇中に登場するテクノロジーには年月を感じる。しかし、むしろSNSが高度に発達した今だからこそ強烈に突きつけられるのは、「自分ではない誰かになる」ことのハードルが当時よりも格段に下がったということだ。
私たちは自分が望めば、TwitterやInstagram、YouTubeなどで自分ではない別人格を作り出すことができ、いつでもどこでもアクセスすることができ、ことによっては有名人になることさえできる。これらはジョン・マルコヴィッチにしかなれない、しかも15分という制限時間もある「穴」よりずっと便利なものだ。しかしそれゆえに、本作が描いたアイデンティティの問題、あるいは自分自身に満足できないという問題は、製作当時よりもはるかに深刻化したと言える。デバイスによって人間のプライバシーがあっさりと失われてしまうことも、さらに重大かつ身近な問題として理解できるはずだ。
『マルコヴィッチの穴』(C)PolyGram Holdings,Inc. All Rights reserved.
一方で本作には、(物語の結末を具体的には記すことはしないが)カウフマンが「ありのままの自分」をいったん肯定しつつ、アイデンティティの問題にわかりやすい解答を提示しないところにも一種の先進性がある。キーパーソンである妻のロティについて、カウフマンは「抑圧されたエネルギーと自己を発見するエネルギーの持ち主」だと述べているが、〈抑圧〉と〈自己の発見〉とはまさしく本作のテーマを紐解くキーワード。混乱を極めるアイデンティティと欲望のドラマの先に、カウフマンは人間がありのままであることを――それがいかなる形であれ――“いったんは”肯定するのだ。
なぜ“いったんは”と強調するかといえば、カウフマン自身が投影されたであろう主人公のクレイグには、残酷な結末もきちんと用意されているからである。才能あるクリエイターだが発表の機会に恵まれず、また自身の恋愛もうまく達成できないクレイグは、仕事とプライベートの両方をマルコヴィッチという他者に譲り渡してしまう。では、マルコヴィッチという“容器”から出て行かざるをえなくなった時、クレイグという人間にはいったい何が待っているのだろう?
『マルコヴィッチの穴』の執筆直前、シットコムの脚本を書いていたカウフマンは、いったい何に大きなストレスを感じていたか。それは、自分ではない別のクリエイターの〈声〉を真似なければならないことだったという。うまく書くことができず、やがて会議でも発言できなくなっていったカウフマンは、とうとう「他人のふりはできない」という結論に至った。そして、一番の解決策は自分自身のままで挑める仕事を見つけることだと考えたのである。その思いが『マルコヴィッチの穴』に繋がったのだから、つまりはカウフマンに最も近い存在であるクレイグこそが、実は自分自身であることを早々に放棄し、真っ先に脚本家の信念を裏切っているのだ。その男に罰が下されるのは、至極当然のことにちがいない。
ところで、かくも複雑で、かくもパーソナルな本作だが、カウフマンは「特に戦略を持たずに書き始めた」というから恐ろしい。最初は「既婚者の男が恋をする」というアイデアだけで、ジョン・マルコヴィッチの存在はなかったそう。後から「穴を通って別人の脳内に入る」というアイデアが生まれ、ふたつが融合して物語が動き出したのである。
本人いわく「この映画はアイデンティティがテーマだ、と思って書き始めたわけじゃない。自分が不安に思っていることがいくつかあって、それが脚本にまとまるんだ」。これについて、ジョーンズ監督は「だからチャーリーの脚本は面白い」と言っている。「だって、チャーリー本人さえ知らないところに連れて行かれるんだから」。
[参考資料]
・『マルコヴィッチの穴』米クライテリオン盤Blu-ray
文: 稲垣貴俊
『マルコヴィッチの穴』
Blu-ray: 1,886 円+税/DVD: 1,429 円+税
発売元:NBCユニバーサル・エンターテイメント
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