「君にオスカーを獲らせる」と宣言した名匠の演出とは
本作の脚本と監督を手掛けたのは名匠ポール・マザースキー。実を言うと彼が最初に思い描いていた主演俳優は、アート・カーニーとは全く別の人物だった。
その頃、40代のマザースキーは、自身が果たして70代の主人公の心境を描けるのかどうか、不安を抱いていたという。そこで主演には年相応の安定感のある名優を据えようとした。最初に声をかけたのはジェームズ・キャグニー。言わずと知れたアメリカ映画の黄金期を支えた名優である。しかし彼にオファーをしたところ「ごめんな、俳優業は引退したんだ」との返事。
他にもローレンス・オリヴィエやケイリー・グラントなど、オファーした適齢の大俳優たちにはことごとく断られてしまった。挙げ句の果てに、マザースキーはどこかキャグニーと似た雰囲気を持つアート・カーニーに声をかけてみることに。とはいえ、そのころの彼はまだ50代で、さすがに実年齢と20歳も離れた役柄を演じることに腰がひけていたそう。そこで、いつまでも「うーん」と悩み続ける彼を前に、監督が提示した決め台詞は「あなたならオスカーが獲れる!」。これがまさか予言的中しようとは、誰よりも当事者たちがいちばんビックリしたのではないだろうか。
『ハリーとトント』(c)Photofest / Getty Images
マザースキーといえば元々、演技派俳優を数多く育てた超大物リー・ストラスバーグらのもとで演技を勉強し、長きに渡る俳優経験を生かして、演技のレッスンやワークショップを通じて後進の育成に尽力した人だ。そんな彼がカーニーにオスカーをもたらした演出術とは一体どんなものだったのか?
彼はその内幕について「私は何ら演技指導なんてしてないよ。すべて彼(カーニー)自身の役作りの賜物さ」と語っている。
だが、その一方で「僕は俳優の扱い方に長けている。自分が長い間、役者だったからね。演出する上で常に思うのは、自分をさらけ出す俳優たちを大切にいたわってやりたいということ。大部分は本人にお任せして、現場ではここぞという必要な時にだけ、簡潔な指示を出す。もしこれでうまくいかなかったときは、それはそれで、改めてじっくり掘り下げていけばいい」(DVD音声解説より)とも。
さらに全体の9割近くを脚本の流れ通りに”順撮り”して、俳優がしっかりと気持ちを醸成していけるよう気を配ったという。ハリーとトントのなんとも表現しようのない演技や、温もりに満ちた関係性が醸成された背景には、こういった最大限の心遣いが大きく貢献しているのかもしれない。