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『ミッチェル家とマシンの反乱』すべての問題を笑い肯定する、アニメーション映画の新次元

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『ミッチェル家とマシンの反乱』すべての問題を笑い肯定する、アニメーション映画の新次元

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すべての問題を笑い、そして肯定する



 『ミッチェル家とマシンの反乱』において、あらゆる要素が詰め込まれたのは映像面だけではない。映画や音楽、YouTubeやInstagramなど、過去と現在のポップカルチャーが、時にはストーリーの核心で、時には小ネタとしてさまざまに引用されるのもそのひとつ。予告編でBTSの『MIC Drop』が使用されていたことも、本編の趣向を延長したものだったと言っていいだろう。


 鮮やかなアニメーション、押しよせるユーモア、卓越したアクション、数えきれない引用。もっとも、圧倒的な情報量によって表面はコーティングされているが、物語のテーマはシニカルだ。デジタル世代のテクノロジーについていけないアナログな父親、英語で「時代遅れ」という意味を持つdinosaur=恐竜を愛し、周囲とのコミュニケーションを苦手とする弟・アーロン、キラキラした私生活をSNSでアピールする隣人にモヤモヤする母・リンダ。バーチャル・アシスタントの開発者・マークは、新型の発表にあたり前モデルをあっさりと見捨て、“マシンの反乱”を招く。そして主人公のケイティは、自分の夢を前に家族を軽んじてしまう。


 本作は、そうした登場人物たちが抱えている“現代の問題”を(しばしば皮肉めいた)笑いの対象とすることで、ドライな視線を差し向ける。「ロボットやAIに人間とまったく同じことができるとしたら、人間にとって大切なものは何なのか。人間を特別な存在にするものとは何か」。リアンダ監督による問いかけは、劇中において「人々が軽視するものはテクノロジーにも軽視される」という形で表れ、かくしてロボットたちは人間社会を蹂躙する。ファミリー向けのアニメーションゆえにオブラートには包まれているが、技術のために倫理を軽んじる節のあったマークに対し、ロボットたちが振るう暴力は明らかにおぞましい。



『ミッチェル家とマシンの反乱』©2021 SPAI. All Rights Reserved.


 ミッチェル家は冒険の中で危機に直面し、おのおのの欠点を直視し、問題に向き合っていく。ただし本作のポイントは――具体的な言及こそ避けるものの――「アナログなものに、家族に、人の繋がりに回帰すべし」という保守的な結論にあっさりと着地しないことだ。家族は大切だが、同時に面倒。テクノロジーは恐ろしいが、決してそれだけのものではない。古いものは現在に繋がり、新しいものも昔の価値観に届きうる……。物語に織り込まれた要素は、それぞれの多面性ゆえに肯定されることになる。


 ロボットによる人類制圧を除いて、リアンダ監督はすべてをありのままに受け入れていく。その思想はストーリーだけでなく、あらゆるスタイルを包摂する映像のあり方や、さまざまなカルチャーを引用する手法、ひいてはスタッフのアイデアを積極的に取り入れる創作スタイルにも一貫している。すべての善し悪しを認め、特別視せずに肯定する姿勢といってもいい。劇中で“キラキラの代表”のように扱われるInstagramにしても、愛犬・モンチの声優を担当したのが約400万人のフォロワー数を誇る犬のインスタグラマー「ダグ・ザ・パグ」だと知れば、そこにも多角的な視点があることがわかるだろう。


 こうした姿勢は、作品を通じた社会的イシューへの取り組み方にも表れている。配信直後から話題を呼んだのが、ケイティが同性愛者であるという設定だ。ケイティはセクシャルマイノリティ(LGBTQ+)を象徴するレインボーのバッジを付けており、ある場面では性的指向がさらりと示唆される。監督はこの設定について「ことさらに強調せず、バランスを取りたいと思いました」と話した。「髪が赤いのも、女の子が好きなことも、すべて彼女にとっては普通のこと。現実世界で普通のことは、アニメーションでも普通に描いていいはずです」。




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