富まざる者から富める者への変身願望
かつて淀川長治先生が、リプリーが同性愛者であることを喝破したことは有名な話。ロジャー・イーバートも、「直接的には言及されていないが、明らかに埋もれたレベルの同性愛的な魅力がある」とコラムで著している。
だが、筆者レベルの鑑賞眼ではそのテイストが正直よく分からない。リプリー=同性愛者説の根拠としてよく引き合いに出されるのが、リプリーが鏡の自分にキスをするシーン。「フィリップを演じているリプリーが鏡にキスをするのだから、リプリーがフィリップにキスをするのと一緒!だからリプリーはフィリップが好き!」ということらしいのだが、本当にそうか?筆者には、“富まざる者が富める者にメタモルフォーゼしたい”という、変身願望にしか見えないのだ。
確かにリメイク版『リプリー』には、そのテイストが濃厚に刻印されていた。マット・デイモン演じるリプリーは、ジュード・ロウ演じるディッキー(フィリップと同役)に対してハッキリと恋愛感情を吐露するし、ピーターという青年と恋愛関係に陥る様子も描かれている。
『リプリー』予告
原作者パトリシア・ハイスミス自身が同性愛者であり、彼女が1952年に発表した「The Price of Salt」(2015年にトッド・ヘインズ監督が『キャロル』として映画化)が女性同士の恋愛を描いた作品であることを考えれば、リプリー=同性愛者説は大いにあり得ることだ。だが少なくとも『太陽がいっぱい』におけるリプリーは、同性愛者であるかどうかは判然としない。むしろルネ・クレマンは、彼が何者であるかを徹底して隠蔽しようとしている。トム・リプリーは、そのバックボーンが全く見えてこないキャラクターだ。貧しく孤独で野心家な青年、ただそれだけ。
象徴的なのは、映画のオープニング。『太陽がいっぱい』は、ローマのカフェでリプリーとフィリップが会話しているシーンから始まる。視覚障害者の杖を2万リラ払って買い取ったり、その杖で視覚障害者を装って女性を誘惑したり、とにかくやりたい放題。てっきり二人は昔からの悪友かと思いきや、フィリップ曰く「彼とは最近知り合った」とのこと。
リメイク版『リプリー』では、リプリーが大富豪のグリーンリーフから、「遊び呆けている息子のディッキー(名前が異なるが、フィリップと同役)を連れ戻してほしい」と依頼されるところから物語が始まる。そしてリプリーはディッキーの関心を引くために、一生懸命ジャズを勉強したりする。しかし『太陽がいっぱい』は、その重要な導入部を完全にすっ飛ばしてしまっている。かなりトリッキーな構成だが、それによって「物語が進行にするに連れて、リプリーという人間が、よりミステリアスに、より理解不能になっていく」という効果が発揮される。
そう、『太陽がいっぱい』は正体不明の男が殺人を犯し、身を滅ぼすまでのピカレスク・ロマンなのである。