悲劇的な結末を迎える“太陽に背いた男”
原作者のパトリシア・ハイスミスは、この映画を「視覚的に美しく、知的で面白い」と評価。リプリーを演じたアラン・ドロンの演技にも満足していたという。しかし、彼女は映画の結末にはオカンムリだった。原作でリプリーはまんまと完全犯罪を成し遂げていたにも関わらず、映画では警察に逮捕されるであろうことを匂わせるエンディングだったからだ。
最初はルネ・クレマンも、まんまと逃げおおせる結末を考えていた。だが、あまりにも非道徳的、非倫理的なエンディングは観客が納得しないとプロデューサーに説得されて、今のようなラストに落ち着くことになる。再び彼のインタビュー記事を引用してみよう。
『太陽がいっぱい』(c)Photofest / Getty Images
「私が夢見た結末を教えてあげよう。(中略)リプリーは金持ちになり、旅を続けている。そしてアテネに行く。港で船を降りると、歩道橋の先に警察官が2人待っているのが見える。彼は殺されてしまうのかと焦るが、そうではない。ここでは、船が到着するたびに2人の警官が配置されるルールになっているんだ。リプリーは何の問題もなく通り過ぎる。何も問題はない。彼はパルテノン神殿にたどり着き、階段に座っている。自首するべきか、この社会に居場所を見つけるべきか、自問自答している」(ルネ・クレマン インタビュー記事より抜粋)
だが筆者は、彼が悲劇的な結末を迎えてしまうもう一つの理由は、彼が“太陽に背いた男”だから、と考えている。原題の『Plein soleil』には「真昼間」という意味もあるが、彼がフィリップの殺人に及んだのは、まさしく正午の12時だった(リプリーが所有していた懐中時計が示していた時間に注意)。罪深いことに彼は、太陽が燦々と照りつけるなかで、神こと太陽が下界をはっきりと見下ろすなかで、凶行に及んだのである。
その瞬間、彼は罪人として罰せられる運命を背負った。フィリップのひどい悪戯によってリプリーはボートに置き去りにされ、直射日光で全身に火傷を負ってしまう。そして照りつける太陽を一身に浴びて、「太陽がいっぱいだ。今までで最高の気分だよ」と恍惚の表情を浮かべる直後に、自らが犯した罪が発覚する。やや文学的な推論だが、『太陽がいっぱい』は「太陽に背いた男が罪を罰せられる物語」とも解釈できるのだ。
参考:
https://www.rogerebert.com/reviews/purple-noon-1960
文:竹島ルイ
ヒットガールに蹴られたい、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」主宰。
(c)Photofest / Getty Images