※本記事は物語の結末に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。
『牯嶺街少年殺人事件』あらすじ
1960年代初頭の台北。建国中学昼間部の受験に失敗して夜間部に通う小四(シャオスー)は不良グループ”小公園”に属する王茂(ワンマオ)や飛機(フェイジー)らといつもつるんでいた。小四はある日、怪我をした小明(シャオミン)という少女と保健室で知り合う。彼女は小公園のボス、ハニーの女で、ハニーは対立するグループ”217”のボスと、小明を奪いあい、相手を殺して姿を消していた。ハニーの不在で統制力を失った小公園は、今では中山堂を管理する父親の権力を笠に着た滑頭(ホアトウ)が幅を利かせている。小明への淡い恋心を抱く小四だったが、ハニーが突然戻ってきたことをきっかけにグループ同士の対立は激しさを増し、小四たちを巻き込んでいく…。
オムニバス映画『光陰的故事』(82)の一編「指望」でのデビューから、最後の作品『ヤンヤン 夏の想い出』(00)まで。台湾ニューシネマ期に登場し、たちまち台湾を代表する映画監督となったエドワード・ヤンは、その生涯で8本の映画を残した。
なかでも彼の最高傑作と評されるのが、4本目の長編『牯嶺街少年殺人事件』(91)である。大勢の登場人物によって織りなされる、上映時間3時間56分という巨大なタペストリーに映し出されるのは、絶対に謎を解くことのできないミステリーだ。
Index
1960年代・台湾、不安定な足場
舞台は1961年の台湾。台北・建国中学の夜間部に通う“小四(シャオスー)”こと張震(チャン・チェン)は、ある日、学校の保健室で小明(シャオミン)という少女に出会った。小明は不良グループ・小公園のリーダーであるハニーと交際していたが、小四は彼女に惹かれていく。もっとも、ハニーは敵対する集団・217のリーダーを殺害して台南に逃亡中だった。その間に小四と小明は距離を縮めていくが、ある日、ハニーが台北に戻ってきた。これをきっかけに小公園と217の対立が激化するかたわら、小四の家族にも政治の不穏な手が伸びる……。
『牯嶺街少年殺人事件』予告
『牯嶺街少年殺人事件』でエドワード・ヤンが題材に選んだのは、1961年に台北で起こった実際の殺人事件だった。14歳の少年が、心変わりをしたガールフレンドを殺害したのだ。加害者と同い年だったヤンは、この事件に衝撃を受け、それから30年後に本作を発表。しかし、ヤンは事件の忠実な映画化を意図したわけではなかった。台湾の近代史と自身の体験とを織り交ぜ、ひとつの悲劇が起こるまでの環境をじっくりと描き出したのである。
映画冒頭にも示されるように、1940年代の終わりには、中国本土から数百万人が台湾に移住した。1945年に日中戦争が終わった後、中国では共産党と国民党の内戦(国共内戦)が起こり、1949年に共産党が勝利したのである。敗れた国民党は台湾に渡って政権を握り、この時に大勢の人々も台湾へ移り住んだ。国共内戦後に中国からやってきた人々を「外省人」、それ以前から台湾に住んでいた人々を「本省人」と呼ぶ。ヤン自身も家族とともに、1949年に中国から台湾へ渡った外省人である。
そもそも台湾とは、先住民が統治していた時代に始まり、オランダや清朝、日本、そして国民党と、あらゆる政権による統治が行われ、それゆえ人々が不安定なアイデンティティを強いられてきた土地だ。『牯嶺街少年殺人事件』に登場するのはほとんどが外省人だが、彼らもまた不安定な立場にある。食卓のシーンで、小四の母が「日本と八年戦って、日本の家屋に日本の歌……」と漏らすように、彼らの日常生活は、アイデンティティの揺らぎの上に成り立っているのだ。
『牯嶺街少年殺人事件』(C)1991 Kailidoscope
極めつけは、小四の父が、頼りにしている有力者の汪國正(ワン・グオチェン)から投げかけられる言葉である。当時、多くの外省人は台湾へ渡る際、あくまでも永住ではなく一時的な移住だと考えていた。したがって小四の父も中国への復帰を夢見ているのだが、汪は容赦なくこう告げる。
「1949年に台湾へ来てから、もう12年になる。中国に戻れるとは思えない。ならば早いうちに、長い目で計画を立てなくては。上海人特有のインテリ人臭さは、さっさと捨てなければダメだ。」
それから、汪はこうも口にする。「俺がお前を出世させる。今は俺がお前を助けたが、将来はお前の世話になるのさ。俺らは身内で、旧友は派閥だ」。アイデンティティに不安を抱える人々は、互いに依って立つことで足場を確保せざるを得ない。しかし、のちに小四の父は――ほかでもない小四自身も――この足場にこそ自らを絡め取られていくことになる。