イーストウッドによって創造された“名無しの男”
クリント・イーストウッド演じる“名無しの男”は、まさしくイーストウッドによって創造されたキャラクターといっていいだろう。予算がなさすぎて、衣装も自前で用意してくれと言われた彼は、ハリウッドのスポーツショップでジーンズを、サンタモニカの衣装屋で帽子を、ビバリーヒルズの店で黒い葉巻を購入。ブーツとガンベルトは、『ローハイド』で着用していたものと同じものだ。普通は不測の事態に備えて、同じ種類の衣服を何着か用意するものだが、そんな悠長なことはいっていられない。全てが一張羅状態。
さらにイーストウッドは、「セリフが冗長すぎる」とレオーネに直談判。必要最低限のセリフしか喋らない、主人公にしては寡黙すぎるキャラクターを創り上げていく。そもそも、俳優自らが自分のセリフを減らすなんて行為は、普通は考えられないこと。役者としてのアイデンティティーに関わる行為だからだ。このときからイーストウッドには、演技者というよりも、作品を俯瞰して最良の選択をすることができる、監督的な視点が備わっていたのかもしれない。
『荒野の用心棒』(c)Photofest / Getty Images
レオーネとイーストウッドは、撮影中決して友好的な関係ではなかった。レオーネは望んでいなかった主演俳優に対して無愛想な態度をとり、イーストウッドがキレてセットから立ち去ることもあった。それでも、両者はお互いの才能をリスペクトし合っていた。そうでなければ、その後『夕陽のガンマン』(65)、『続・夕陽のガンマン』(66)と続く「ドル箱三部作」でタッグを組むことはなかっただろう。
『荒野の用心棒』は、一人の天才によって産み出された映画ではない。セルジオ・レオーネとクリント・イーストウッドという異質の才能が互いのエゴをぶつけ合い、時には共鳴しあうことで、作品の輪郭を太くさせていったのである。