西部劇の文法を破壊した、無垢で自由な精神
今回この稿を書くにあたって参考文献を読み漁っていたら、クリント・イーストウッドのこんなコメントに出くわした。
「レオーネの映画では、ストーリーが断片化されている。漫画のコマが並べられているだけで、コマのつながり方はかなりルーズだ」(クリント・イーストウッドへのインタビューより引用*)
これは非常に面白い指摘だ。ある意味でレオーネは、教科書的な映画文法には無頓着な監督だったと言えるだろう。そもそも彼は、いわゆる切り返しショットをほとんど使わない。対話している二人を撮る場合、普通は被写体を交互に撮影するものだが、レオーネはワイドショットで対話する二人を同時に収める。
場所や被写体の位置関係を認識させるための、エスタブリッシング・ショットもあまり使わない。我々はスクリーンに映し出される情報から場所を類推し、位置関係を想像する。そしてレオーネは、ここぞというタイミングで極端なクローズアップを使う。スクリーン全体が顔に支配される、その迫力。彼が目指したのは、細部にまで神経が行き届いたフレーミングの美学。レオーネ自身も、こんなコメントを残している。
「ジョン・フォードもそうだったが、私はアクションの監督ではない。私は身振りと沈黙を司る監督だ。そして、イメージの弁士でもある」(セルジオ・レオーネへのインタビューより引用)
『荒野の用心棒』(c)Photofest / Getty Images
下記のコメントも、レオーネの映画観を表したものだろう。
「私は常々、真の映画とは想像力の映画だと考えている」(セルジオ・レオーネへのインタビューより引用)
イーストウッドによれば、レオーネはそもそもハリウッドにおける西部劇の鉄則すら知らなかったという。例えば火を噴く銃と、銃で撃たれて倒れる者は、同一の画面に収めることはならなかった。あまりにも暴力的すぎるからだ。しかしレオーネは、そんなことはどこ吹く風。平気でそのお約束をぶち破ってみせる。
無垢で自由な精神が、凝り固まった西部劇の文法を破壊することで、『荒野の用心棒』はマカロニ・ウェスタンの傑作となったのだ。
*「孤高の騎士クリント・イーストウッド」(石原陽一郎 訳、フィルムアート社)
文:竹島ルイ
ヒットガールに蹴られたい、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」主宰。
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