イーストウッドが繰り返し描く師弟関係
物語は年老いたマイクと少年ラフォが、メキシコからテキサスへと向かう道中がメインとなる。その過程でマイクは時に焚火を挟んで、ラフォに自分の人生やそれにまつわる哲学を問わず語りに聞かせる。これは『ハート・ブレイク・リッジ/勝利の戦場』(86)『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』(04)『グラン・トリノ』(08)などでイーストウッドが好んで描いてきた、若者と、彼らを教え導く老賢者という構図だ。本作では、中盤からの印象的なシークエンスで、その師弟の関係性がさらに深化していく。
ラフォの母による追手から身を隠すため、マイクとラフォはメキシコの田舎町に身を潜める。ここで彼らは酒場を営む女性マルタ(ナタリア・トラヴェン)と出会い、町の牧場で野生馬の調教を手伝うようになる。マイクはマルタと心を通わせ愛し合うようになり、かつての仕事であった馬の調教をラフォに教えていく。逃亡中のはずなのに、この町でのシークエンスは驚くほどゆったりとしており、まるで夢のなかにいるような多幸感に包まれている。凡庸な監督なら、観客の眠気を誘ってしまうのではないかという恐怖を覚え、もっと短くするか、登場人物同志の葛藤を煽ったりするだろう。
しかしイーストウッドはそんなお定まりの映画的展開にまるで興味を示さない。「君たち(観客)は俺の普段の生き方をただ見ていればそれでいいんだ」といわんばかりに、何気ない日常とそこに生きる人々を描写していく。ラフォ少年の目は、人生の晩年を自然体で楽しむイーストウッドの姿へと引き寄せられ、観客はその眼差しに同化していく。この弟子の眼差しこそが、イーストウッドが考える師が弟子に何かを伝えるためのコミュケーション装置だ。
『クライ・マッチョ』© 2021 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
その証拠にラフォを演じたエドゥアルド・ミネットはイーストウッドとのエピソードをこう語っている。
「撮影初日は非常に事務的な感じだった二人の関係は、日を追うごとに俳優と監督という関係を超えて、まるで師匠と弟子のような感じになっていきました。待ち時間には、イーストウッドがこれまでに訪れたメキシコの場所について教えてくれたり、彼が俳優業を始めたエピソードを話してくれたり、お互いの人生について語りあったりと、二人で過ごす時間が多く、どんどん親しくなっていきました。まさに僕らの関係をなぞるようにして撮影は進んで行ったんです。その関係性は間違いなくスクリーンの二人にも投影されていると思います」※3
弟子は師の言葉はもちろん、何気ないふるまい、立ち姿からも何かを学ぶ。観客は弟子であるラファ少年の眼差しに同化することで、老イーストウッドのスクリーンの中での振る舞いを弟子の目線で体感し、思索を深めることを求められるのだ。
観客の能動的な読み取りと解釈が必要とされる本作は、決してとっつきやすい作品ではないだろう。ポール・シュレイダーがくさした気持ちもわからないではない。「プロならもっと素直に観客を楽しませろ」と。しかし、映画仙人イーストウッドなら、こう返すかもしれない「そんなに肩肘はらずに俺を見ろよ。人生はこうやって楽しむんだ」と。
人は映画を「スリルや興奮、感動を与えてくれるものだ」と思い込み、映画館の椅子に身を沈め、受け身で待ち構える。しかし『クライ・マッチョ』はイーストウッドの生き様を浴びることで、観客自身が自分の中に生まれる繊細な感情を逃さずに掬い取ることを要求する。
本作に限らず近年のイーストウッド映画は、かように観客を試す趣を持つ作品が少なくない。イーストウッド映画を観る時、私たちは彼の弟子となり、スクリーンの中の彼の一挙手一投足を仰ぎ見ながら何かを感じとるよう促される。それもまた彼の作品を鑑賞する愉悦なのだ。
※1 ポールシュレーダーの作品評 (翻訳は筆者)
※2 イーストウッドの発言
文:稲垣哲也
TVディレクター。マンガや映画のクリエイターの妄執を描くドキュメンタリー企画の実現が個人的テーマ。過去に演出した番組には『劇画ゴッドファーザー マンガに革命を起こした男』(WOWOW)『たけし誕生 オイラの師匠と浅草』(NHK)『師弟物語~人生を変えた出会い~【田中将大×野村克也】』(NHK BSプレミアム)。
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『クライ・マッチョ』
2022年1月14日(金)新宿ピカデリーほか、全国ロードショー
配給:ワーナー・ブラザース映画
© 2021 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved