パンチドランク・バトル
塩田明彦の映画では、小屋、または廃墟が登場人物のパーソナルな小宇宙を形成している。『害虫』(02)のサチ子(宮崎あおい)がボーイフレンドと避難していた工場の廃墟のように。戦場から身を守るためのシェルター。この世界から遠くに離れるための、ロマンチックな秘密基地。しかしそれらは同時に、その記憶に囚われた者による戦いの起点として残酷に提示される。
由希にとって海辺の小屋は、世界から避難するためのシェルターでありつつ、自分勝手な大人の世界を知るきっかけになってしまった忌まわしい「記憶の装置」そのものでもある。由希はこの記憶の疼きに囚われてしまった「パンチドランカー」として戦っている。そして塩田明彦が描くヒロインには、一人で生きていくことを決めた『害虫』のサチ子による、ありえたかもしれない未来のイメージがうっすらと重なっている。
『麻希のいる世界』(c)SHIMAFILMS
由希が麻希の手を引いて、強引に軽音楽部の部室に連れていく衝動的なシーンがある。廊下や階段を全力で駆け抜けていく長い移動の間、由希の一直線な目とは対照的に麻希は、どこに視線を合わせていいか分からないような、それでいてこの状況を楽しんでいるかのような不安定な目をしている。「いろんな人間を不幸にする」と生徒たちから噂される麻希は、常に由希よりも一歩先を進んでいて、どこか魔女的でミステリアスな雰囲気を纏っているが、それでも麻希はこの世の外にいるような超越的な存在ではない。麻希もまた、由希と同じように、この世界に住む囚われの少女、戦闘する、自傷する少女なのだろう。
アルバイト先のボーリング場のロッカールームで、お互いの名前をフルネームで呼ぶシーンで、彼女たちは鏡像関係を結ぶ。「青野由希」「牧野麻希」。このときの発声の素晴らしさ。何かの呪文を唱えるかのように、そう呼び合うことで、二人の間に来たるべき「間合い」が詰められる。彼女たちの名前はよく似ている。
部室のシーンにおける暴力性が特異なのは、麻希の音楽の才能を認めさせたい由希の衝動的な行動が、麻希を生徒たちの前で「晒し者」にしてしまう暴力のように見えながらも、その暴力が初めから由希を追い詰める自傷行為となっているところだろう。麻希を救うための戦闘によって、由希は誰よりも「晒し者」にされ、深く傷ついてしまう。由希は麻希を救うことができない。由希は渦巻く衝動に対して、代償を払うことになる。
「映画術 その演出はなぜ心をつかむのか」(塩田明彦著)の「視線と表情」に関する言葉を思い出す。「人間は何かを見ているときは、別の何かが見えていない」。