アルベルト・グリマルディとの確執
アルベルト・グリマルディは、1925年ナポリ生まれ。大学で法律を学び、弁護士としてキャリアをスタート。1962年に自身の製作会社P.E.A.を設立し、『夕陽のガンマン』(65)や『続・夕陽のガンマン』(66)など、セルジオ・レオーネ作品のプロデュースを手がけて名声を博した。
グリマルディがベルトルッチ作品のプロデューサーとして仲間入りを果たすのは、『ラストタンゴ・イン・パリ』から。『暗殺のオペラ』(70)や『暗殺の森』では、いとこのジョヴァンニをローマに呼び寄せて、叱咤激励しながら製作を担当させたベルトルッチにとって、彼は全幅の信頼が置ける初めてのパートナーだった。
グリマルディは、いきなりその辣腕ぶりを発揮する。彼は築き上げた人脈を駆使して、アメリカ市場にベルトルッチの存在を売り込み、“世界が認める映画作家”という地位へと押し上げた。『1900年』の製作費をアメリカの3メジャーから捻出できたのも、グリマルディの功績と言っていいだろう。よくよく考えてみれば、メジャー映画会社が3社も共同出資することが異例だし、共産主義プロパガンダの匂いがダダ漏れの本作に、アメリカの会社が協力することも異例。グリマルディの尽力によって、それだけベルトルッチがアメリカ市場で高い評価を受けていたのだ。
『1900年』(c)Photofest / Getty Images
だが理想のプロデューサーとの蜜月は、意外な形で終わりを迎えることになる。問題は、上映時間だった。半世紀にも及ぶイタリア現代史を映像化するにあたって、どうしたって尺は長くなる。撮影したフィルムは想像以上に膨大で、最初の編集の段階では6時間15分もの長さに達した。ベルトルッチは総上映時間5時間を超える二部作として公開することを提案したが、グリマルディがそれを拒否。アメリカとカナダで公開するためには、3時間15分未満の映画をパラマウントに納品することが契約上の義務となっていたからだ。グリマルディは編集室からベルトルッチを締め出し、勝手に3時間7分の短縮版を編集。両者の溝は決定的なものとなってしまう。
現在『1900年』には、オリジナルの「5時間16分バージョン」、グリマルディが勝手に切り刻んだ「3時間7分バージョン」、そしてもう一つ、ベルトルッチが泣く泣く妥協して作った「4時間7分バージョン」の3つが存在する。どこかで聞いたような話だと思ったら、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)でも同様のことが起こっていた。
レオーネは当初、総上映時間6時間の二部作として公開しようと目論んだが、プロデューサーによって拒否されてしまい、断腸の思いで3時間49分バージョンを編集。ところがそれでも長すぎるという判断で、勝手に編集された2時間24分バージョンがカンヌ映画祭で上映されてしまった。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』には、「4時間11分バージョン」、「3時間49分バージョン」、「2時間24分バージョン」の3つが存在するのである。
しかもこの映画のプロデューサーを当初務めていたのは、アルベルト・グリマルディその人(途中で降板)。歴史は繰り返すのだ。