“詩的に表現されたイデオロギー”とは
筆者がこの映画を見返すたびに感嘆するのは、ベルトルッチの変幻自在な演出ぶり。ある時はオペラのごとく流麗に、ある時はドキュメンタリーのごとく冷徹に、ひとつの定型に押し込めることなく、タッチを変容させながら物語を紡いでいくのである。
「これまでの自作のなかで、一番脚本執筆に精出した作品。執筆は二年続き、書いては書き直し、議論してはまた議論し直した。そして、この基礎となる大仕事が、続く撮影時にかなりの自由を私に与えてくれることになった」**
と本人が語っている通り、自由度の高い演出はベルトルッチもかなり意識的だったのだろう。そもそも本作は、第一部と第二部で明らかにルックが異なる。アルフレードとオルモの少年時代は、鮮やかな色彩に包まれた世界だ。風に揺れる稲穂や、緑濃ゆる田園風景は、まるでモネやルノワールに代表される印象派絵画のよう。しかしこの二人が成長し、戦争の足音が忍び寄るにつれて、色は彩度を失い、世界は影を帯びていく。
ベルトルッチが「映画の各シーンを四季に基づいて撮影した」と述べている通り、主人公たちの出会いは夏、大人になった二人の再会は秋、ファシズムの訪れは冬、戦争の終結は春と、半世紀のドラマを春夏秋冬に割り当てている。撮影監督のヴィットリオ・ストラーロは、“光”という名の絵筆を使って、時代の移ろいを的確にスクリーンに焼き付けた。
『1900年』(c)Photofest / Getty Images
もう一つ特筆すべきは、イタリア現代史を真正面から描きつつも、“映画的”としか言いようのない、フィクショナルな構造を纏っていることだろう。
「エミリア・ロマーニャ地方の農民の世界に属する、明確にドキュメンタリー的性格を持つ、人間的、文化的、社会的素材を映画の中に導き入れるために、劇的、物語必然性を犠牲にすること、これこそが『1900年』でぼくが絶え間なく示そうとした、基本的な考えだった。最後の場面で、ぼくはこの二つの必然性の融合を図ろうとした。ドキュメンタリーとフィクションの境界を越えようとした。それはぼくがイデオロギーの実現と考えるもの、詩的に表現されたイデオロギーとみなすものに到達するためだった」*
映画のラストシーンで老齢となったアルフレードは、少年時代にかつてオルモとそうしたように、線路に寝そべって汽車を待つ。そして汽車が通り過ぎると、アルフレードはなぜか少年の姿に戻っている。このマジカルな表現こそ、彼が言うところの“詩的に表現されたイデオロギー”なのだろう。しかもこのシーンは序盤の少年時代と対照せしめることで、円環構造を閉じる役割をも担っている。
このシーンは、『ラストエンペラー』のラストで、老人となった溥儀(ジョン・ローン)が、幼い頃玉座の隅に隠していたコオロギの壷を少年に手渡すシーンを彷彿とさせる。過去と現在が不意に繋がるような感覚、時空がねじ曲がったかのようなアンチ・クロノジカルな説話法に、我々は“映画的”な感動を抱くのだ。
『1900年』は、ドキュメンタリーとフィクションの境界を越えた、堂々たるイタリア現代史なのである。
*「ベルトルッチ、クライマックス・シーン」(竹山博英 訳、筑摩書房)
**「1900年 DVDリーフレット」
文:竹島ルイ
ヒットガールに蹴られたい、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」主宰。
(c)Photofest / Getty Images