言葉と色彩で韻を踏む
言葉を介さず画面だけで語ることが映画表現の美徳とされている言説に、批評家時代のエリック・ロメールは「トーキー映画のために」という文章で大きな疑問を呈している(批評集「美の味わい」に収録*1)。むしろ現代の映画作家は、映画における言葉や音声を再定義しなければならないという決意がここから読み取れる。エリック・ロメールは生涯に渡って言葉や音声の再定義を探求した映画作家だ。この文脈に『冬物語』を照らし合わせるならば、フェリシーの思いがけない言葉とロイックが書物から学んだ言葉の間に生まれる偶然の符合に、エリック・ロメールの実践が反映されている。
無学を自称するフェリシーは、よく言葉を間違え、その度に周囲の仲間に訂正される。しかしフェリシーの言葉は、インテリのロイックが書物から得た知識や哲学を人生経験の中で既に学んでいる。そのことにロイックはひどく驚かされる。フェリシーの言うように「愛のささやきにも出典を探し出しかねない」ロイックは、フェリシーが体得している思いがけない「哲学」に、おそらく大きな挫折感を味わっている。
『冬物語』©1991 Les Films du Losange
エリック・ロメールのほとんどの脚本にはト書きがないという。脚本は台詞のみで構成される。台詞だけで状況設定が把握できるように書かれているという。エリック・ロメールの実践は、実生活の延長として映画を制作する姿勢にもよく表れている。パリの町を歩きながら人々の話し方を観察する日々の生活。少人数のスタッフに生涯こだわり続けたこと。俳優の素性に合わせて台詞や身振りを調和させていく作業。ほとんどの作品で美術担当を置かず、インテリアなどの装飾を自分たちで作り上げたこと。
『春のソナタ』(89)における花柄の壁紙が若い二人の女性や外の風景と韻を踏んでいたように、『冬物語』の色彩設計はグレーとブラウンをメインに構成されている。本作ではパリでしか見ることができないグレーの再現に色彩設計の目標が置かれたという。フェリシーとロイックが観劇するシェイクスピアの「冬物語」が伏線であるように、エリック・ロメールの映画における言葉や色彩は、物語と韻を踏み始める。エリック・ロメールの人生は謎に包まれた人生だとよく言われるが、彼が日常生活や映画制作のプロセスから大きなヒントを得ていたことだけは確かなことだろう。そこにエリック・ロメールによる「美の味わい」がある。