© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
『わたしは最悪。』理性と感性の相互監視が生み出す、ニューノーマルな主人公像
「最悪」な主人公を「理解」できる人物設計
まずは『わたしは最悪。』の簡単なあらすじを紹介しよう。本作は序章と12章、そしてエピローグといった全14の章立てで構成されている。物語は、端的に言うと30歳を迎えた女性の「自分探し」を綴った物語。自分が何をすべきか、どのように生きてどんな仕事をして、どんな人と付き合えば安息を得られるのか、2人の男性との関係を軸に描き出していく。
医者、心理学者、写真家、作家などを志すも自分が進むべき道をなかなか見いだせず、現在は本屋のバイトを行うユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)。彼女は、年上のグラフィックノベル作家、アクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)と恋に落ちるが、子どもが欲しい彼と価値観のズレを感じ始める。そんな折、ユリヤはバリスタのアイヴィン(ハーバート・ノードラム)と出会い、自然体な彼に惹かれていく。
誤解を恐れずに言えば、『わたしは最悪。』の大枠の構造自体には特段目新しさはない。中身を観なければ、よくある「アラサー女子の自分探しラブコメ」と同じ棚に置かれてしまうのではないか。ただ本作は、同系統(に見える)作品のエッセンスも多少ありつつ、あらゆる面で異なっている。むしろ、王道のフォーマットを利用し、その“先”を目指す作品といえるかもしれない。
『わたしは最悪。』© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
そのひとつが、主人公の人物像。英題の『THE WORST PERSON IN THE WORLD』にあるように、他人が眉をひそめるような「最悪」な行為をユリヤがいくつかしでかしてしまうところが興味深い。恋人を裏切ってしまったり嘘をついたり、見ず知らずの他人のパーティに黙って忍び込んだりマジック・マッシュルームに手を出したり……。この他にも、いくつかなかなかに思い切った行動をするシーンが描かれており、中には公序良俗に反するものも(劇場パンフレットに掲載されているレインスヴェのインタビューを参照すると、本編ではカットされたものの、物を盗むシーンもあったそう)。
しかしそれを、本作ではリアルな人間として提示している。アウトローやエキセントリックなキャラクターであったり、濃い目に味付けした「こじらせ女子」ということでもなく、ヒロイン感は担保しつつも、どこか「私たちが道ですれ違う“普通の”人々の一人」くらいに描いているのだ。つまりは、主人公から特別性を排除しているということ。レインスヴェの主張しすぎない絶妙な塩梅の演技も相まって、納得できる範疇に収まっているのだ。
確かに、現実に我々がそういった行動をとるかは置いておいて、道徳・倫理的にアウトな方を「わかっていても選んでしまう」こと自体は、人生においてままあるのではないか。『わたしは最悪。』は具体的な行動がどうというよりも、その思考プロセスという本質的な部分にまで到達しているため、ユリヤの行動が不思議とアンリアルなものに見えてこない。
本作と同じく第74回カンヌ国際映画祭に公式選出され、最高賞パルムドールに輝いた『TITANE/チタン』(21)は、車を性愛の対象として見る連続殺人鬼の内面にまで踏み込んで描いていたが、そこまで突き抜けても「共感」できる時代になってきた、という観客の変遷も寄与しているかもしれない。