© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
『わたしは最悪。』理性と感性の相互監視が生み出す、ニューノーマルな主人公像
モノローグが第三者である特異性
『わたしは最悪。』の劇中で印象的に描かれるのは、「選択」と「運命」だ。仕事、恋愛、人生……。目の前に現れる選択肢と、判断を鈍らせる運命。ユリヤは都度悩みながら、時に選び、時に流されていく。「自分の人生なのに脇役の気がする」や「後悔するってわかってる」といった等身大の言葉が並び、観客それぞれの人生とどこかしら重なるような共感性と普遍性あふれる物語が展開する。
そのうえでひとつ興味深い点は、先ほどの「主人公を特別視しない」点にも通じるが――本作がユリヤの主観的な物語でありつつ、客観性も内在しているところ。例えば冒頭、彼女の現在に至るまでの選択の歴史がハイテンポで紹介されるのだが、「第三者の語り」という形式を用いている。よくある「等身大・自分探しムービー」は、冒頭のモノローグを主人公に任せるのが主流。その方が個人が立ち、“主人公感”が生まれやすくなるからだ。『(500)日のサマー』(09)や『ゾンビランド』(09)等々、キャラクターの人物描写も兼ねられる。
『わたしは最悪。』© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
つまり意識的にバイアスをかけることで「わかりやすい」状態に持っていくということ。また、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』(17)や『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(20)のように、「これは“私”の映画」と物語の主権が自らにあると宣言する用法も。『スパイダーマン』シリーズなどでは、主人公の“青さ”を引き立てる効果も担っていた。いわゆる「自分語り」から始まる映画には、理由があるのだ。
しかし、『わたしは最悪。』は初っ端からその方法と逆を行く。「これは“彼女”の物語(しかもその語り手は、恋人や家族ではなく第三者的)」という引いた目線を示し、客観性を担保するのだ。そのアプローチが、「運命」という主観的な存在と、「選択」という客観的な要素を含んだものと絡み合い、作品全体に塗布されていく。あえて章立てにするという構成も、客観性をより強める効果をもたらしている。
大九明子監督作『私をくいとめて』(20)では、のん演じる主人公の女性と、彼女の脳内にいるもうひとりの人格Aの対話形式にし、さらにAの声を中村倫也が演じることで他者性を強め、主観100%の物語ながら疑似的な客観性を生み出していたが、『わたしは最悪。』はストレートに客観を放り込んでくる。主観は没入にも通じ、客観は逆に俯瞰を生む。それでいて主観的な物語構造が成立しているのだから、本作はなかなかに特異だ。しかし、この部分にこそ本作の真の狙いがあるように思えてならない。