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『わたしは最悪。』理性と感性の相互監視が生み出す、ニューノーマルな主人公像
※本記事は物語の核心に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。
『わたしは最悪。』あらすじ
医者、心理学者、写真家、作家などを志すも自分が進むべき道をなかなか見いだせず、現在は本屋のバイトを行うユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)。彼女は、年上のグラフィックノベル作家、アクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)と恋に落ちるが、子どもが欲しい彼と価値観のズレを感じ始める。そんな折、ユリヤはバリスタのアイヴィン(ハーバート・ノードラム)と出会い、自然体な彼に惹かれていく。
Index
- “エモさ”に埋没しない引き算の作り手
- 「最悪」な主人公を「理解」できる人物設計
- モノローグが第三者である特異性
- 「客観的な主観」を見事に表現
- 過去作品にも通底する「運命」と「選択」
- 対話を等距離で見つめる
“エモさ”に埋没しない引き算の作り手
映画監督、ヨアキム・トリアー。彼を一言で表すなら「理性と感性の作り手」といえるのではないか。
ノルウェーの首都オスロを拠点とするトリアー監督の作品世界は、ブルーグレーの空気感や引きの画の美しさ、スローモーションを効果的に用いた演出、感情を増幅する劇伴&楽曲の使い方等々、とかくエモーショナル。「インスタ映え」という言葉が巷に浸透して久しいが、彼の存在を知らずとも、InstagramやTwitterのタイムラインに映像が流れてきたらスクロールする手を止めて見入ってしまうことだろう。物語に到達する以前に、映像に陶酔させられてしまうビジュアルセンスの持ち主といえる。
そこに乗ってくるのが、初期作から協働してきた“相棒”の脚本家エスキル・フォクトと共に創り上げたこれまたエモーショナルなストーリー。『オスロ、8月31日』(11)『母の残像』(15)『テルマ』(17)……。どの作品でも、自らの存在意義や幸福を求めて彷徨う人々の姿をドラマティックに見つめてきた(余談だが、フォクトは2021年に久々の監督作となる『De uskyldige(原題)』を発表。少年少女×超能力モノとなり、日本公開が待ち遠しいところだ)。
映像も物語も「お洒落でエモい」と来たら、人によっては胃もたれするエモの過積載になってしまう危険性もあるが、トリアー監督にいたってはその道をたどらなかった。それどころか、今日に至るまで世界的に評価され続け、しかも絶賛の声が拡大しているように見受けられる。彼がこれまでに作り上げた長編は5本だが、規模感も評価も順調にスケールアップしている。
『わたしは最悪。』予告
その理由の一つと考えられるのが、先に挙げた「理性」の部分だ。映像センス、つまり「感性」に振り切るのではなく、トリアー監督は抑制を効かせた“引き算の美学”を持ち合わせている。かつ、作品ごとに人物描写を含めた表現に磨きがかかり、手癖に埋没することがない。いわば、アップデートし続けるクリエイターでもあるのだ。
その到達点であり、原点回帰的なニュアンスも含むのが、第74回カンヌ国際映画祭で女優賞に輝き、第94回アカデミー賞では脚本賞と国際長編映画賞にノミネートを果たした『わたしは最悪。』だ。日本でも『リコリス・ピザ』『哭悲/THE SADNESS』等の話題作と同日公開ながら、ミニシアターランキング1位(※興行通信社調べ)になるなど高評価を得ている。
「理性」と「感性」は、「客観」と「主観」とも言い換えられる。ヨアキム・トリアー監督自身がそのバランスを模索し、作品ごとに黄金配分を見出す作り手であると同時に、彼の作品に登場する人物たちもまた、理性と感性、客観と主観の狭間で揺れている。
本稿ではこの「理性/感性」「客観/主観」というテーマを中心に、ヨアキム・トリアー監督の過去作品『オスロ、8月31日』『母の残像』『テルマ』から最新作『わたしは最悪。』を縦断しつつ、考えていきたい(『リプライズ』は現時点で国内未ソフト化のため、今回は除外する。『オスロ、8月31日』は2022年8月31日まで「JAIHO」で配信中)。