© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
『わたしは最悪。』理性と感性の相互監視が生み出す、ニューノーマルな主人公像
「客観的な主観」を見事に表現
1人の女性の人生における重要なタームを描いた『わたしは最悪。』は、それでいて俯瞰的な目線が常に存在し、安易な没入を許さない。ただ、この「一人を描く主観性」と「どこか引いた客観性」は両立しえないものなのだろうか? 個を描いた物語に客観が入ると、何が起こるのか? それは、「主観の客観性」或いは「客観的な主観」だ。
主観すら客観的であること――つまり、自分自身に対してどこか引いてしまい、没頭できない感覚というのは、「自分の人生を疑わずに生きられない」ユリヤのパーソナリティそのものでもあるのではないか。そう考えると、事の真相が見えてくる。ユリヤが「最悪」な行動をしてもアンリアルに見えないところも、作品全体に漂う客観性も……。すべては、ユリヤがこの物語の主人公であることを放棄してしまうからなのだ。
これはどういうことかというと、一見すれば客観性をもたらすためのアプローチに思えたものが、実はユリヤという人物の主観的な感覚を創出するための装置だった、ということ。「自分の人生の主人公が自分だと思えない」「私の人生はいつ始まるのか?」という感覚は、個人の主観の中に客観がかなりの割合で混ざりこんでいる。
『わたしは最悪。』© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
この複雑な内面を表現するにあたって、第三者的なモノローグや章立てといった客観的な構成は、必要不可欠なものだった。要するに、『わたしは最悪。』は個人を客観的に見つめた作品ではなくて、自分自身を客観視しすぎてしまう主人公にパーソナライズし、彼女の感覚を追体験させるような構造が敷かれた超・主観の映画だったということ。
その証拠に、本作はエモーショナルを単に善や美として用いていない。冒頭に「エモの過積載を回避している」と述べたが、本作においてはそれもそのはず……。主人公自身が、エモい状況=運命に飛び込んでいくことに躊躇しているわけだから、どこかエモい映像にも後ろめたさ=引きの感覚が入り込んでくる。
その最たるものが、本作のハイライトでもある「オスロの街が静止し、その中でユリヤだけが街中を走り、アイヴィンに会いに行く」という大掛かりなシーンだ。実際にオスロの大部分を封鎖して撮影された本シーンは、そこだけを切り取れば多幸感あふれる「運命的」でファンタジックなものに見えるかもしれないが、ユリヤにとっては現実逃避であり、その“妄想”を抱くこと自体が、アクセルへの罪悪感・背徳感を強めるものにもなる。アイヴィンを「選択する」ことは、アクセルとの関係の終わりを意味するからだ。故に、ユリヤは無責任に没入できないし、没入したことに後ろめたさを感じてしまう。その「理性が感性を邪魔する」心理を反映した映像自体も、よくよく観るとどこか物悲しさが漂う。
感性/本能/主観で突っ走るのではなく、理性/客観で丹念に紡いでいくという意識。さらにいうと、主観任せに行動することに慎重になり、しかし時に衝動的/熟考の末にその道を選び、登場人物がそのことを後悔/肯定するというプロセス――意思決定までに「逡巡」のワンクッションを挟む内省的な人物描写は、ヨアキム・トリアー監督の作品に通じる特徴だ。