© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
『わたしは最悪。』理性と感性の相互監視が生み出す、ニューノーマルな主人公像
対話を等距離で見つめる
ここまで『わたしは最悪。』の主人公の描き方について紹介してきたが、作品全体で「男女それぞれの苦悩」「芸術における表現の是非と作家との関係性」「モノへの愛着とジェネレーションギャップ」といった今日的なテーマがフラットに議論されていく点も、注目したいポイントだ。
近年の映画において、「目線がフラットであること」と「“対話”が行われること」はこれまで以上に重要視されている。平等性・多様性を重んじるが故だが、マジョリティの感覚でマイノリティを断定しないように(その逆も然り)、といったところから、そこに留まらずにあらゆる部分で視野を広げよう、アップデートを図っていこうという意識がより強く作り手・観客に宿るようになった。マイク・ミルズ監督の『カモン カモン』(21)でも、「大人のバイアスで子どもを見ない」ことが描かれていたが、『わたしは最悪。』にもまた、かような意識が感じられる。
結婚や妊娠・出産といったおなじみのテーマについても、両親世代との価値観の相違においても、15歳離れているユリヤとアクセルの見てきたもの/見ているものの衝突においても、アクセルの作品が「性差別的だ」とフェミニストに糾弾されるシーンにおいても――。本作では“対話”の場をきちんと設けており、曖昧に済ませることをしない。さらには、ユリヤにもアクセルにもアイヴィンにも過度に肩入れすることなく、彼らが互いの主義主張をぶつけ合うさまを等距離で映し出していく。こうした意味でも、本作の理性/感性、客観/主観のバランス感覚は非常に効いている。
『わたしは最悪。』© 2021 OSLO PICTURES - MK PRODUCTIONS - FILM I VÄST - SNOWGLOBE - B-Reel – ARTE FRANCE CINEMA
先日、ヨアキム・トリアー監督にインタビューを行った際、ユリヤの人物描写やアクセルの形あるものへの愛着について「自然発生的なもの」「僕の想いを代弁している」と話していた。つまり計算して人物造形を行ったわけではない、ということだが、であればなおさら、監督×脚本コンビが、時代性を肌で感じているということになる。
考えてみると、ユリヤの主観に客観が入り込んでいる人物像は、現代においてはそこまで奇異なものではなく、むしろ時代を的確に切り取っているようにも思えてくる。個人がリアルとSNS等のバーチャルで複数の人格を使い分けるのは常態化しているし、その中で「本当の自分」を喪失してしまう人もいることだろう。「自分がどうしたいか」よりも「人からどう見られるか」で意思決定するシチュエーションも増えており、先ほど述べた選択肢の多様化含め、ユリヤはある意味で時代の業を背負ってしまった人物といえるかもしれない。
国や地域・年齢や性別によらず接点を見出せる部分と、時代の空気感をとらえた部分――つまり普遍性と現代性のハイブリッドである点が、『わたしは最悪。』が各映画賞で評価された点といえるのではないか。自らのスタイルをキープしつつもブラッシュアップを怠らず、ニューノーマルを体現する作品を作り上げたヨアキム・トリアー監督。既に次回作の開発に着手しているそうだが、コロナ禍を越えた世界で、どのような物語を我々に提示してくれるのだろうか。
取材・文:SYO
1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライター/編集者に。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」 「シネマカフェ」 「装苑」「FRIDAYデジタル」「CREA」「BRUTUS」等に寄稿。Twitter「syocinema」
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『わたしは最悪。』
7月1日(金)より、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ他 全国順次ロードショー
配給:ギャガ
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