1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. ホワイト・ノイズ
  4. 『ホワイト・ノイズ』ノア・バームバック流パンデミック映画にみる“死”への向き合い
『ホワイト・ノイズ』ノア・バームバック流パンデミック映画にみる“死”への向き合い

WILSON WEBB/NETFLIX © 2022

『ホワイト・ノイズ』ノア・バームバック流パンデミック映画にみる“死”への向き合い

PAGES


パンデミック前の“平和な退屈”を描く第1章



 ここからは具体的に作品の中身をみていこう。『ホワイト・ノイズ』は3章立てになっており、ざっくりいうと「パンデミック前」「パンデミック中」「パンデミック後」が描かれる。第1章は日常劇、第2章はパニックもの、第3章は不条理劇とジャンルを横断しながら136分の物語が紡がれる構成だ。


 前述したテーマソングをLCDサウンドシステムに依頼した際、バームバック監督は「死を描いた楽しい曲を書いて欲しい」とオーダーしたという。そしてダニー・エルフマンにはこう伝えた。「監督がこの映画について僕に最初に言ったことは、『この映画はあなたのために作られています。全ては死についてであり、死の恐怖についてだからです(笑)』だった。彼は間違いなく正しい。僕の得意とするテーマだからね」(ロッキン・オンのNY映画祭のレポート記事より)。


 ふたりの証言からもわかる通り、本作の主となるテーマは「死」であり、そこから逃れようとする人間の根源的な「恐怖」だ。バームバック監督はIndieWireのインタビュー記事の中でも「この物語は、私たち人間がどうにかして死を娯楽に昇華させた方法を物語っています」と語っており、「空から人体に有毒な雨が降ってくる」という経験をしてしまった人間がどういう心理状態になるのかを、信仰や愛、家族や薬物を絡めつつ描きながら、死という避けられないものに対する“対処”を見つめていく。それはそのままコロナ禍のいまを生きる私たちの実像であり、同時に死と向き合い続けた人間自体の創意工夫や滑稽さをも暴き出す。



『ホワイト・ノイズ』WILSON WEBB/NETFLIX © 2022


 いまとなっては軽薄な表現になってしまうが――「死は避けられないが、身近に感じることもない」状態だったときのことを思い出してほしい。人はいつか死ぬという真理に気づいていながらも、それが自身にすぐに降りかかるとは思わない状態……。それが同タイミングで書き換えられてしまうのが、例えば震災等の自然災害であり直近であればコロナのようなパンデミックであろう。『ホワイト・ノイズ』はまず、第1章でその“ゼロ”の状態をじっくりと観客に刷り込んでいく。


 本作は、とある映画の授業風景から始まる。様々な映画のカークラッシュシーンが映し出されるのだが、これは明確に「死を娯楽化する」行為の表れだ。例えばスティーヴン・スピルバーグ監督の『激突!』(71)は、突如降りかかる死の恐怖をエンタメ化しており、スクリーンの向こう側という安全地帯にいる我々はドキドキハラハラしながら疑似的な死の恐怖をスリルとして楽しめる。またアダム・ドライバー演じる主人公はヒトラー研究家であり、家に帰ると子どもたちが飛行機の墜落映像を興味深そうに眺めている……と“死”を見る構図が意図的に練り込まれている。


 その後、ダンプカーと貨物列車が衝突したことで有毒物質が外に出てしまいパンデミックが起こるのだが、周囲の人間が最初に示すのは野次馬的な興味だ。「自分たちに危害が及ばない」と信じている“対岸の火事”状態から渦中に飲み込まれる際の恐怖……それを第2章で起こすために、あえてほとんど何も起こらない状態に作り上げた第1章が興味深い。


 人によっては退屈と感じてしまうかもしれないくらいスローテンポで進んでいくのだが、ちりばめられた伏線やテーマ性に後からハッとしたり、その“退屈な日常”こそが大切なものだったと失って初めて気づかされる上手さ――Netfixのように視聴者が退屈と感じたらすぐスキップされるプラットフォームで、あえて劇場映画的なアプローチを貫いたという点でも、バームバック監督の作り手としての意志を強く感じさせる。





PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. ホワイト・ノイズ
  4. 『ホワイト・ノイズ』ノア・バームバック流パンデミック映画にみる“死”への向き合い