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『ボディ スナッチャー/恐怖の街』50年代アメリカのSF的ナイトメア ※注!ネタバレ含みます。

(c)Photofest / Getty Images

『ボディ スナッチャー/恐怖の街』50年代アメリカのSF的ナイトメア ※注!ネタバレ含みます。

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反共映画か?反赤狩り映画か?



 では、『ボディスナッチャー/恐怖の街』はバリバリの反共映画なのだろうか?ココがポイントなのだが、実は全く逆の解釈も可能だったりする。つまり本作は共産主義の恐怖を描いた映画ではなく、その共産主義を取り締まる赤狩り(マッカーシズム)の恐怖を描いた映画、とも解釈できるのだ。


「君らも知ってのとおり、永遠の愛などない。愛、欲望、野心、信念などない方がシンプルに生きられる」


 劇中、ポッド・ピープルに乗っ取られた精神科医のダン・カウフマン(ラリー・ゲイツ)は、こんなセリフを語る。「信念などない方がシンプルに生きられる」とは、「共産主義的思想など持たない方が、アメリカではシンプルに生きられる」という思想転向を促したものとも考えられる。ダン・カウフマンというキャラクターは、赤狩りを推し進めたジョセフ・マッカーシー議員とも重ね合わせられるのだ。


「君たちは狙われている。妻も子供もみんな奪われるぞ。やつらはすぐそこに!次は君だ!次は君だ!君なんだ!」



『ボディ スナッチャー/恐怖の街』(c)Photofest / Getty Images


 そう考えると、マイルズの絶叫も全く違う意味を帯びてくる。“やつら”とはソ連や中国を指すのではなく、下院非米活動委員会(赤狩りの舞台となった下院の特別委員会)を指していしているのではないか?『ボディスナッチャー/恐怖の街』が真に偉大なのは、イデオロギーを偏向させず、両義的な解釈を可能にしていること。そして個人がどんな思想を持つことも自由であり、それは決して侵犯されるものではないという、最も重要な人間の権利が謳われていることなのである。ドン・シーゲル自身、この映画は政治的なメタファーではなく、心理的なメタファーとして製作したと語っている。


 本作のオリジナルのエンディングは、まさにマイルズがハイウェイで絶叫するこのシーンだった。いかにもドン・シーゲルが好みそうな、強烈にパンチが効いた終幕。だが、あまりにも悲劇的な結末にスタジオ側が拒否反応を示し、ハッピーエンドに改変するように命じる。ドン・シーゲルは大反対するも、結局「マイルズの警告によって、ポッド・ピープルの地球侵略が失敗する(ことが示唆される)」エンディングに修正させられてしまう。


 『ボディスナッチャー/恐怖の街』が最も伝えたかったであろう思想の“自由”は、皮肉にも製作環境の“不自由さ”によって、やや伝わりにくい作劇になってしまったのである。




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