台詞の空白に表れる渾身の役作り
人間というもの、知識というものは、なんと薄っぺらく、むしろ無知であることが新鮮で強みになることもある。そんな社会のアイロニーを、コメディ映画で培った抑制された演技と絶妙の間で表現していくセラーズ。その功績は計り知れない。彼が役作りにどれだけ神経を割いたかについて、その記録が残っている。セラーズは撮影に先駆けて、チャンスの声を何パターンかテープに録音し、それを何度も再生して研究したほか、台詞の間に意図的な空白を持たせることで、周囲から見ると「何か凄い人」と感じさせる雰囲気作りに成功している。『ピンク・パンサー』のクルーゾー警部がいつ顔を出すかと観客は身構えるものの、結局最後までお遊びは封印されたままだ。
チャンスのキャラクターは、セラーズが亡き父親からインスパイアされたもの。それが、イギリスの伝記作家、ロジャー・ルイスの原作をジェフリー・ラッシュ主演で映画化した『ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方』(04)で紹介されている。また、チャンスの声自体は、セラーズのアイドルだったイギリスのコメディアン、スタン・ローレルに似せているという説もある。
『チャンス』(c)Photofest / Getty Images
『チャンス』は、セラーズが珍しく実現を諦めなかった作品だったとも言われている。本気で情熱を注いだ作品だったとも言えるだろうか。彼を一躍スターダムに押し上げた『ピンク・パンサー』シリーズでは、監督のブレイク・エドワーズとの確執が絶えず、映画の仕上がりに本人は失望していたと言われているし、初めてアカデミー賞候補に名を連ねた『博士の異常な愛情』では、監督のスタンリー・キューブリックがワンシーンに何テイクも費やす理由が理解できなかったと伝えられている。
しかし、クルーゾー警部役は今やセラーズの代名詞になっているし、1人で何役も演じるカメレオン俳優としての個性は、『ピンク・パンサー』シリーズや1人3役に挑戦した『博士の異常な愛情』で証明されている。やりたいことと頼まれることのギャップに苦しんでいたセラーズにとって、その両方が合致したのが『チャンス』だったというわけだ。