2023.03.06
郷に入れば郷に従え
ボイルのこれまでのキャリアを振り返ると、『スラムドッグ』は過去の経験に学びながら、たどり着くべくしてたどり着いた境地であることが納得できる。
例えば、ボイル作として数々の禍根を残した『ザ・ビーチ』(00)を思い起こしてみてほしい(ロケ地となったタイで自然景観に変化を加えるなどして多くの批判を浴びた)。この映画で彼は、全体の約半分のスタッフを欧米で採用し、そのまま彼らを引き連れてロケ地のタイへ乗り込んだという。一方の『スラムドッグ』ではその割合をグッと最小限に抑え、インド入りした欧米組のスタッフはわずか十数人。あとの大部分は現地のインド人を採用し、できるだけ現地の風土や文化に合わせて製作を進めていったそうだ。
予定通りに事は進まないし、インドが持つ凄まじいパワーはたった一人の力でどうにかなるものではない。その日の撮影スケジュールが全然思い通りにならなくても決して慌てず、その場その場で臨機応変に判断しながら、最善の選択肢を探す…。こうやって欧米資本でありながら、可能な限りのインド要素を映像に焼き付けようとしたのである。
『スラムドッグ$ミリオネア』(c)Photofest / Getty Images
この点において重要な役割を果たしたスタッフがいる。それが本作のエンド・クレジットにおいて「co-director(India)」として表示されるラブリーン・タンダンである。
もともと彼女は『モンスーン・ウェディング』(01)『その名にちなんで』(06)などの高品質の作品で手腕を発揮してきたキャスティング・ディレクター。本作でもその経歴を買われ、各々の役にふさわしい人材を見つけるべく奔走した。とりわけタンダンが苦心したのは主人公3人の抜擢。すなわち、幼年期、少年期、青年期それぞれを担う9人を探し求めることである。まず初めにデヴ・パテルやフリーダ・ピントをはじめとする青年期の3人が決まり、それと似た容姿の子役たちの中から最適の人材が選ばれていった。その中の二人はスラム出身だったと言われている。
が、彼女の果たした役割はそれだけではない。もともとの脚本では全編が英語で書かれていたのだが、タンダンは作品をよりリアルに生き生きとするためにヒンディー語を用いることを提案したのである(素人の子役たちにとって、慣れ親しんだ言語の方が格段に演技しやすいのは当然だ)。
この案が了承される形で、タンダン自ら脚本の3分の1近くをヒンディー語へと翻訳。さらに撮影を前にして、ボイル監督から「共同監督として現場に参加してほしい」と要請を受けることに。決してダニー・ボイルと同じレベルの決定権を持って現場を取り仕切ったわけではないにせよ(どちらかというと補佐役といった印象が強いようだ)、彼女がいなければ『スラムドッグ$ミリオネア』がこれほどの果実に育つことはなかっただろう。