2023.03.06
トイレ場面は甘いチョコレートの匂い
いざ映画が始まると、観る者の頭はフル回転を余儀なくされる。まず映し出されるのは、警察署で厳しい取り調べを受ける主人公ジャマール。かと思えば、「クイズ・ミリオネア」の回答者席で難問に挑む姿へと切り替わり、さらに回想シーンでは、幼少期から現在に至るまでジャマールの歩んできた道のりがフラッシュバックで描かれていく。いわばこの3構造を巧みに行き交いながら、「主人公が今ここにいる理由」をパズルのように組み上げていくのである。
一見すると、インドがもたらす破格の絵力ゆえに、従来のダニー・ボイル作品とは全く異なる質感のように思える。が、2度、3度と鑑賞を重ねると、心に余裕が生まれ、ボイル作品らしい特徴が徐々に目視できるようになっていく。
例えば、まずもって目に飛び込んでくるのは、ムンバイのスラムにおける主人公たちの「疾走」だ。かつて『トレインスポッティング』で、エディンバラの目抜き通りを勢いよく走り抜けたレントンたちの姿が重なっていく。そうやって疾走と共に、主人公と彼らが暮らす街並みをダイナミックに映し出すやり方は、いわばボイルの得意技である。
その場面を抜けると、今度はスラムの”トイレ”がフィーチャーされる。と言っても、肥だめの上に掘建て小屋があるというだけの簡素な構造だ。そこに閉じ込められ、なんとか脱出しようと、ぽっかり空いた穴から真下の肥溜へとダイブして全身クソ塗れになるジャマール。
『スラムドッグ$ミリオネア』(c)Photofest / Getty Images
これもまた『トレインスポッティング』を観たことのある人なら、レントンが「スコットランド でいちばん汚いトイレ」の便器へ潜り込んでいくくだりと重なって見えてくるはずだ。両作ともに撮影現場ではコーティングのためにチョコレートが多用され、ほんのり甘い香りが漂っていたとか。さらにジャマールは大スターのサインを手にして、レントンはアヘン座薬を手にして、両者ずぶ濡れの格好で力の限り「やったぞー!」と叫ぶ。
思い返すと、『トレインスポッティング』は「人生を選べ」という有名なフレーズが示すとおり”主人公の選択の物語”だった(サッチャー政権下がもたらした時代の空気が色濃く投影されている)。では一方の『スラムドッグ』はどうかというと、こちらは”今いる現在地”を先に提示して、そこにたどり着くまでの人生がいかなる決断の連続だったか、「クイズ・ミリオネア」の出題問題を通して逆説的に振り返っていくという構造だ。
人生とは試行錯誤を繰り返しながら、汗まみれ、泥だらけになり、ひた走っていくもの。すべての出来事は必然であり、無駄なことなど何一つないーー。そんなメッセージが伝わってくるかのよう。この”自分が今いる現在地や存在意義”を力強く祝福する特色は、ボイルとボーフォイが次にタッグを組む『127時間』(10)でもしっかりと組み込まれている。