自動人形が止まるとき
ユーロスペースの堀越謙三による著書「インディペンデントの栄光 ユーロスペースから世界へ」によると、『書かれた顔』は喉頭ガンによって鬱病のように塞ぎこんでしまったダニエル・シュミットに元気を出してもらうための企画から始まったという。この時期にダニエル・シュミットは、長年プロダクションデザインを務めた公私のパートナー、ラウール・ヒメネスをエイズで失っている。またフィルモグラフィーを俯瞰して見た際、自身の育ったホテルを舞台にする総決算的な傑作といえる『季節のはざまで』(92)の後であることも重要なことに思える(『季節のはざまで』の少年が貝殻を耳に当てていたように、『書かれた顔』の芸者はレコード盤を耳に当てている)。失うものはもはや何もなかったという気持ちが当時のインタビューで語られている。
『書かれた顔』はロラン・バルトの「表徴の帝国」に収められた同タイトルからインスピレーションを得ている。単に男性が女性の化粧をして演じるということではなく、いまこの瞬間、この空間に描かれようとしている「純粋な表徴体」としての女形。女形というイメージの生成、そのドキュメンタリー性。ダニエル・シュミットは、これまでにも『カンヌ映画通り』(81)で、映画祭の迷子としてのビュル・オジエの挙動、所作をカメラに収めてきた。坂東玉三郎の演技論でいうところの「感受」「浸透」「反応」のプロセスそのものが捉えられた作品といえる。どこまで振り付けが施されているか、まったく見当のつかないビュル・オジエによる自由な挙動、所作は、意味に還元されることのない身振りとして今日においても新しい。
『書かれた顔』(C)1995 T&C FILM AG / EURO SPACE
そして『書かれた顔』のルーツを考えるとき、ダニエル・シュミットによる長編デビュー作『今宵かぎりは…』(72)のことを思い出さずにはいられない。実家のホテルで撮られたこの極めて挑発的で美しい作品は、マネキンのような人物のゆっくりとした動作が強烈な印象を残す。登場人物はぜんまい仕掛けの自動人形のように動く。『ダニエル・シュミット 思考する猫』(10)で蓮實重彦が語っているように、ダニエル・シュミットは「ゆっくりとした運動がどこまでゆっくりすれば静止するか」を繰り返しテーマにしている。『書かれた顔』の坂東玉三郎が、どのタイミングで静止するかを考えたとき、舞踏が止まってしまうことの官能性が浮かび上がる。それは恍惚とした死とも呼べるものだろう。