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『書かれた顔』すべては舞台=人生の美のために

(C)1995 T&C FILM AG / EURO SPACE

『書かれた顔』すべては舞台=人生の美のために

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僥倖の魂、放物線



「だが考えてみれば奇跡のようなタイミングだったのだ。問題が解決し、撮影が開始された瞬間、夕刻の光は東京湾とその手前の人工池とをともに黄金色に染めて溶け合わせ、画面に信じ難い美しさを残した。計算でできることではない。それを意図せず組織したのがあのスイス人、ダニエル・シュミットなのだった。「僥倖」という言葉が頭に浮んだ。そして「僥倖」を起こすことこそ映画作家の才能なのだ、とそのときはっきりと学んだ」(青山真治)*3


 東京湾を望む大野一雄の美しい舞踏。水の上を歩く伝説の舞踏家。まるで催眠術をかけられたかのような気持ちにさせられる舞踏という名の儀式。そしてダニエル・シュミットの映画にとって催眠とは覚醒のことに他ならない。ダニエル・シュミットの盟友ヴェルナー・シュレーターは、『書かれた顔』に先駆けて大野一雄を撮っている。ピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」等が収められたナンシー国際演劇祭のドキュメンタリー『舞台リハーサル』(80)。この作品の中で大野一雄はマリア・カラスの「もの悲しい美しさ」への愛を表明している。マリア・カラスを愛する、ダニエル・シュミット、ヴェルナー・シュレーター、大野一雄。『書かれた顔』において水上で踊る大野一雄には、舞踏によって引き起こされるもの悲しさ、人の感情の崩れ、乱れの尊さを舞踏の放物線で描いているように思える。それはサイレント映画の寸劇として挿入される屋形船のシーンで決定的となる。



『書かれた顔』(C)1995 T&C FILM AG / EURO SPACE


 ジャン・コクトーの戯曲「人間の声」やグレタ・ガルボの主演した『グランド・ホテル』(32)を下敷きにしたというサイレントの寸劇。ここで再び成瀬巳喜男による『晩菊』に話を戻したい。なぜなら『書かれた顔』のサイレント寸劇は、杉村春子が演じる元芸者の家に住んでいる耳の不自由な静子(鏑木ハルナ)の見た世界なのではないか?という仮説が成り立つような気がするからだ。他人とジェスチャーで会話する静子。静子はサイレントの世界で元芸者の物語、人の感情が乱れる際の美しさを見ていた。そして成瀬巳喜男は一部始終を見ていた静子を、彼女のことを尊重するように画面に収めていた。


 『書かれた顔』は、やがて消えていくイメージを追いかける。イメージを描こうとする人々の放物線。演技=身振りという名の放物線。ダニエル・シュミットはその「線」をカメラに収めていく。映画の最も美しい「線」。思いがけない「線」。坂東玉三郎の美しさは、坂東玉三郎がどんな衣装を選んだか?どんな風に女形を描いたか?という選択の美しさでもある。本作は人々の美意識、所作、人生の選択の美しさにこそ価値を見出す。たとえ肉体が滅びても、僥倖の魂が舞い続けることを信じているかのように。


*1 「坂東玉三郎 すべては舞台の美のために」(小学館)

*2 「キネマ旬報 1996年3月下旬号」(キネマ旬報社)

*3 「シネマ21 青山真治映画論+α集成2001-2010」(青山真治著・朝日新聞出版)



文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。



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配給:ユーロスペース

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