Copyright 2021 © URANIA PICTURES S.R.L. e GETAWAY FILMS S.A.S.
『ダークグラス』アルジェント的コードが横溢する、ジャッロへの原点回帰
見る/見られる
月が太陽と重なり、街はすっぽりと闇に包まれる。『ダークグラス』は、そんな不穏な日食のシーンから始まる。ダリオ・アルジェントの弁によれば、これはミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち(原題『L'eclisse』、日食)』(62)に敬意を表したものだという(*1)。なるほど、10代で雑誌に映画評を寄稿していたという博覧強記なシネフィルの彼にとって、アントニオーニは非常に大きい存在なのだろう。そして、光の世界から闇の世界へと切り替わることで、主人公ディアナ(イレニア・パストレッリ)の視力が失われることへの“予兆”にもなっている。
(*1)『ダークグラス』ダリオ・アルジェント監督インタビュー
だが筆者には、この日食が巨大な“目”に見える。遥か上空の彼方から人間を見下ろす、神の目に。思えばダリオ・アルジェントは、大きく見開いた目のカットを印象的にインサートしてきた映画作家だ。例えば『シャドー』(82)では、殺人が起きるたびに目だけのカットがサブリミナル的に使われている。
そもそも映画とは、「見る/見られる」という関係性のうえに成り立っているメディアだ。主体としての“見る観客”、客体としての“見られる映画”。我々はスクリーンを通して、ディアナの一挙手一投足を神のごとく見守ることができる。さらにサスペンス映画であれば、“見る加害者”、“見られる被害者”という関係性に還元することもできるだろう。
『ダークグラス』Copyright 2021 © URANIA PICTURES S.R.L. e GETAWAY FILMS S.A.S.
本作の原題は、『Occhiali neri』。黒い眼鏡…まさにダークグラス(サングラス)。ディアナは映画全編を通してサングラスをかけ続けているが、それは“見られる”ことへのささやかな抵抗なのかもしれない。目を覆い隠すことで、殺人鬼からの視線を避けようとしているのかもしれない。アルジェント作品を見ていると、思わず「見る/見られる」というメディア特性に想いを馳せてしまう。
真っ赤なブラウス、真っ赤な口紅、真っ赤な血。本作では、どぎついくらいの真紅がスクリーンを覆い尽くす。この原色使いは、ダリオ・アルジェントの十八番。だが映画は終盤になると夜の帳が下りて、色を失っていく。かつてのフィルム・ノワールのような、モノクロームの映像。それはまさにサングラス越しの世界だ。熟練の手つきで、老監督は周到に「見る/見られる」を映像的に補完していく。いやもう、見事です。