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『オープニング・ナイト』“老い”という実存的恐怖からの解放

(c)1977 Faces Distribution Corporation

『オープニング・ナイト』“老い”という実存的恐怖からの解放

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『オープニング・ナイト』あらすじ

新作舞台「2番目の女」に取り組んでいた舞台女優マートル(ジーナ・ローランズ)は、ある日熱狂的ファンの若い女性ナンシー(ローラ・ジョンソン)が事故死する現場に遭遇してしまう。心を痛めたマートルは葬儀に参列するが、家族の対応は冷淡なものだった。やがて彼女はナンシーの幻影を見るようになり、心のバランスを失っていく。勝手にセリフを変えたり、小道具を投げつけたり、観客に向かって喋り出したり、台本から逸脱した行為を繰り返すようになる…。


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“俳優の映画”



 ジョン・カサヴェテスを語ることは難しい。躍動的なカメラワークであったり、端正な構図であったり、キレの良いエディットであったり、多くの観客が信じている"映画なるもの”とは最も遠く離れている場所に、彼は鎮座している。


 カメラのピンは甘く、構図は緩い。状況説明のためのエスタブリッシング・ショットも、ほぼ使われない。ショットの繋ぎも不恰好だ。カサヴェテスにとって、古典的な映画文法なんか二の次。その独特すぎる文体は、生々しく、ぶっきらぼうに、人生の意味を問いかけてくる。彼自身のインタビューを引用してみよう。


 「今日、映画を作っている人たちは、フィーリングではなく、メカニックなこと、つまり技術的なことを気にしすぎている。(中略)ある監督に "今日は最高にゴージャスなショットが撮れた "と言われると、吐き気がするね。重要なのはそこではない。私たちは、テクニックやアングルにこだわる現状を超えなければならない。時間の無駄だ。映画は、ショットの連続以上のものだ。(中略)結局トリックばかりで、人間も人生も知らない映画を作ることになる。センスも、意味も、人間への理解もないのだから、俳優が映画にもたらすものは何も残らない」(*1)


 自らも優れたアクターであるジョン・カサヴェテスは、何よりも“俳優が映画にもたらすもの”にこだわっている。だからこそ至近距離で俳優を捉え、荒々しくラフな手法で、より深く内面に分け入ろうとする。顔、顔、顔。クローズアップでスクリーンいっぱいに映し出される、顔。離婚の危機を迎えたある夫婦の36時間を描いた『フェイシズ』(68)から、その姿勢はまったく揺らいでいない。



『オープニング・ナイト』(c)1977 Faces Distribution Corporation


 妻でもあるジーナ・ローランズ、ベン・ギャザラ、ピーター・フォーク、シーモア・カッセル。インディペンデント映画の父とも称されるジョン・カサヴェテスは、演技力に定評のある実力派たちを召集して、徹底して“俳優の映画”を紡ぎ出す。カサヴェテスは、頑固なまでにアクターズ・ファーストなフィルムメーカーなのだ。


 「スタッフの意見は聞かない。彼らは、純粋に感情に対して興味があるわけではないと思う。私にとっては、俳優が基本的な創造力であり、彼らのアプローチや問題への理解が良ければ映画は成功し、技術チームの仕事は結局のところ二の次だからだ。(中略)彼らの主な仕事は、自分のパートをうまく遂行することだ。一方俳優にとっては、自分のキャラクターがストーリー全体に反映されるため、ストーリーが重要になる。ベン・ギャザラがストーリーに関与していないと感じたら、たとえ彼が素晴らしくても観客は興味を持たず、注意を払わないだろう」(*2)


 長編映画9作目に当たる『オープニング・ナイト』(77)もまた、独特すぎる文体が濃厚な逸品。ある舞台女優の内面にフォーカスした設定からして、文字通り“俳優の映画”となっている。主演を務めたジーナ・ローランズは、その演技が認められてベルリン国際映画祭銀熊賞(女優賞)を受賞。カサヴェテスは「自分が関わった作品の中で最高の作品だ」と自画自賛。ペドロ・アルモドバルは、1999年に発表した『オール・アバウト・マイ・マザー』で、本作の事故シーンを模倣している。


 『オープニング・ナイト』は間違いなく、ジョン・カサヴェテスの代表作のひとつと言っていいだろう。





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