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『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』フィルム・ノワールを纏った、疑似家族の物語 ※注!ネタバレ含みます。

(c)1976 Faces Distribution Corporation.

『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』フィルム・ノワールを纏った、疑似家族の物語 ※注!ネタバレ含みます。

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※本記事は物語の結末に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。


『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』あらすじ

場末のクラブのオーナー、コズモ・ヴィッテリ(ベン・ギャザラ)はプライベート・クラブのギャンブルで大負けし、マフィアに多額の借金を作ってしまう。するとマフィアが借金を帳消しにする代わりに、ある依頼をコズモに持ちかけてくる。それは暗黒街のボス、チャイニーズ・ブッキー殺すことだった…。


Index


奇妙すぎるフィルム・ノワール



 『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(76)は、奇妙すぎるフィルム・ノワールだ。“インディペンデント映画の父”と称されたジョン・カサヴェテスが手がけている時点で、一筋縄ではいかないことは自明の理なのだが、それにしても奇妙すぎる。何というか、外殻は確かにノワール的なるものに覆われているのだが、その核となる部分が全く違う方向を向いているような感触なのだ。


 そもそもフィルム・ノワールとは、“黒い映画”という意味のフランス語。映画批評家ニーノ・フランクが、40年代にアメリカで作られていた犯罪映画を“Film Noir”と呼んだことが起源だと言われている。ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』(41)、オットー・プレミンジャー監督の『ローラ殺人事件』(44)、ビリー・ワイルダー監督の『深夜の告白』(44)…。そこには殺人があり、裏切りがあり、運命の女<ファム・ファタール>の存在があった。強烈な光と闇のコントラストに彩られ、虚無的な物語が綴られたのである。


 では、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』はどうか。「ナイトクラブの支配人コズモ・ヴィッテリ(ベン・ギャザラ)がポーカーで多額の借金を背負い、借金を帳消しにする代わりに、ギャングから中国人ノミ屋を殺すよう命じられる」という筋書きだけを見れば、確かにまごうことなき犯罪映画だ。粒子の荒いザラついたルック、極端に陰影をつけた色調も、ノワール的な蠱惑に満ちている。ジョン・カサヴェテス自身もこの映画を、ギャング・ストーリーと表現しているくらいだ。



『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(c)1976 Faces Distribution Corporation.


 「『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』は、配給ビジネスから脱却するための努力として作ったんだ。撮影を始める2週間前から書き始めたよ。数年前にマーティン・スコセッシと話をして、一晩でこのギャング・ストーリーを作り上げた。数年後、何を作ればいいのか分からなくなったとき、大金を借りたナイトクラブのオーナーが、知りもしない誰かを殺すように説得される話をやろうと思ったんだ」(*1)


 だが、この映画は決定的にフィルム・ノワールとしての王道から外れている。クライマックスの、駐車場でのギャングとの一騎打ち。最も映画が高揚するであろう瞬間を、カサヴェテスは信じられないくらいに平坦なトーンで描出する。追う者と、追われる者。緊張感に溢れるサスペンスが駆動していないのだ。そこにあるのは、日常に“殺し合い”という非日常が侵食しただけの、淡々としたショットの積み重ねでしかない。


 ジョン・カサヴェテスの関心は、おそらく乾いたクライム・ストーリーを語ることではない。彼の眼差しは、コズモが経営するクレイジー・ホースの面々…ミスター伊達男と名乗る司会者や、半裸で踊るダンサーたちや、バーテンたちに注がれている。どうしようもない人間たちのどうしようもない生活に、限りない愛情を抱いている。


 『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』は、ロサンゼルスの片隅で肩を寄せ合って生きる、疑似家族の物語なのだ。





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