マリエとマリエ
「この映画は、あらゆるものの残酷な消費であり、最後には自分自身の消費でもある」(ヴェラ・ヒティロヴァー)*2
ジャック・リヴェット監督によるヴェラ・ヒティロヴァーへのロングインタビューの中に興味深い指摘がある。ジャック・リヴェットは、「二人のマリエは同じ一人の少女なのではないか?」と、鋭い質問を投げかけている。自分の破壊行為を確認するために、もう一人の自分がいる。たしかに二人のマリエはお互いの行為や感情を確かめ合っているように見える。そして自分たちに言い聞かせるように呪文のような言葉を連呼している。「私たち生きてるのよ」「生きてる、生きてる」「私たちは幸せ」「幸せって言いなさい」
『ひなぎく』©:State Cinematography Fund
『ひなぎく』には快楽的に破壊活動をする少女たちが懲罰される側面もある。破壊と創造が同じものとして描かれるように、本作のバカ騒ぎの裏には、そこはかとない、しかし強い悲しみがあるのを誰もが感じることだろう。爆発的な破壊や笑いの背景で過ぎ去っていくもの、元に戻れないものへの悲しみのようなものが絶えず流れている。マリエたちは中年の女性の歌声を耳にする。
「若さよ、何処へいった?なぜに記憶の中に去って行った?」
また当時のチェコスロバキア国内の状況について、マリエ役のイトカ・ツェルホヴァーは「まるで他の国々と同じ惑星にないかのようだった」と表現している。ガラパゴス化したチェコスロバキア。どこか別の惑星にいる少女たち。二人のマリエは食べるという破壊行為に飽きたのか、ついに自分たち自身を切り刻むようになる。そこにはどうすれば元の形に戻すことができるのか分からない、途方に暮れた少女たちがいる。