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『デュエル』ジャック・リヴェットによる俳優主義

© 1976 SUNSHINE / INA.Tous droits réservés.

『デュエル』ジャック・リヴェットによる俳優主義

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『デュエル』あらすじ

現代のパリを舞台に、地上での生を受けるため魔法の石をめぐって太陽の女王と月の女王が対決するファンタジー。ジャック・リヴェットはジェラール・ド・ネルヴァルの小説に着想を得て、ラブストーリー、犯罪劇、西部劇、ミュージカル・コメディといった内容の<火の娘たち>と称した4部作を構想し、本作はその“犯罪劇”にあたる。奇想天外なおとぎ話のような題材を挑戦的なフィルム・ノワールの要素を盛り込んで表現し、超現実的で詩的な美しさを達成した。決闘者の女ふたりに扮するはリヴェット映画の常連ジュリエット・ベルトとビュル・オジェ。


Index


太陽の女・月の女



 ジャック・リヴェットの『デュエル』(76)は、玉乗りに興じるホテルスタッフの女性のショットから始まる。暇を持て余したホテルスタッフが玉乗りをしているというだけで既に奇妙な光景だが、この女性の体を支えていた男性ピエロが後方倒立回転を繰り出すという突飛な展開に、この映画のエッセンスが凝縮されている。バランスを欠いた玉乗りと肉体を駆使した演舞の身振り。リヴェットによる円形と演劇のモチーフが、このファーストシーンに象徴されている。


 後方倒立回転を決めるピエロを演じるのはジャン・バビレ。ジャン・コクトーの台本によるバレエ劇「若者と死」の初演者として知られるバビレは、気まぐれで無垢な女神たちの間を行き交いながら、『デュエル』の源流と思われるコクトーの幻想性に大きな貢献をしている。ここは太陽の女と月の女が同じ空間で息をする世界。冬の間の四十日間だけこの地上を歩くことが許された女神たち。女神たちは度々影の中に消えて去っていく。月を覆う影。魔法の宝石。昼と夜。過去と現在。物質と精神。光と影。内側と外側。不滅と滅亡。それらの概念は、この「並行世界の風景」において反発しながら融け合っていく。



『デュエル』© 1976 SUNSHINE / INA.Tous droits réservés.


 『デュエル』は、ジェラール・ド・ネルヴァルの小説に着想を得て四部作として制作されるはずだった内の一編(犯罪編)だ。リヴェットのフィルモグラフィーにおいて結節点に位置付けられる本作と『ノロワ』(76)には、それまでの方法論とこれからの方法論が、優雅に、そしてラディカルに刻まれている。本作には『狂気の愛』(69)のような「劇場」を描くシーンは存在しない。また、十三時間近い伝説的な傑作『アウト・ワン』(71)のように俳優の属性に任せた即興演技の極北からも遠ざかっている。にも関わらず、本作には劇場や即興演技は、俳優の身振りとしてフィルムに「内面化」されている。また本作にはジャン・ルノワールの映画で作曲家を務めたジャン・ヴィエネルが、度々フレームの隅でピアノを弾いている姿が映り込む。ここではヴィエネルによって即興で演奏される音楽と、音楽が与える俳優の演技への「作用」が実験されている。


 また神話から召喚された現在を生きる女神という点において、直前に制作が頓挫してしまったジャンヌ・モロー主演の『フェニックス』の企画の影を感じずにはいられない。『フェニックス』は、ベル・エポック時代の舞台俳優サラ・ベルナールをモデルに、パリの大劇場に住む世を捨てた女性俳優を描いた企画だったという。太陽の女ヴィヴァ(ビュル・オジェ)と月の女レニ(ジュリエット・ベルト)。本作では同じように神話の世界の女性が召喚されている。高貴で気まぐれな二人の女神を前に、幻に終わった企画の夢の跡が滲んでいる。リヴェットは、どうしても冬の映画を撮りたかったという。『デュエル』は、夢の墓を掘り返すような寒い冬の映画なのだ。




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