アメリカ公開までの道のり
テネシーでの古家の撮影が終わったあとも、地下室のシーンなどの撮影は続き、脚本の段階では僅か66ページだった本作は、撮影終了時には膨大な量の素材があったという(一説には、撮影したフィルムは30km以上あったとか)。サムたちは、ニューヨークを拠点に主に低予算映画を担当していたエドナ・ルース・ポールに編集を依頼。その際にアシスタントとして参加したのが、後に『ファーゴ』(96)や『ノーカントリー』(08)などを手がけるジョエル・コーエンである。ジョエル・コーエンは主に古家でのシーンの編集を担当している。
そうして完成した映画の尺は当初約117分だったが、よりテンポが良くなるように85分に再編集され、1981年10月15日にデトロイトのレッドフォード劇場でプレミアが行われた。
さて、ついに映画は完成したが、あまりにも過激な描写が満載だったため、アメリカ国内ではどの配給会社も手をつけようとはしなかった。そんな中、サムたちが出会ったのがセールス・エージェントのアーヴィン・シャピロである。『カリガリ博士』(20)や『勝手にしやがれ』(60)などの外国映画を数多くアメリカに紹介していたアーヴィン・シャピロは、「『 風と共に去りぬ』(39)ほどではないけれど、稼げる可能性はあると思うよ」とサム・ライミに伝え、まず海外市場に売り出そうと計画を立てた。『死霊のはらわた』のメインポスターにも使われている、地中から出た手が美女の首をつかんでいる写真はこのプロモーション用に撮影されたものである(ちなみに腕はブルース・キャンベルのもの)。
『死霊のはらわた』(c)Photofest / Getty Images
この海外戦略の中でも最も大きかったのが、カンヌ国際映画祭での上映である。なんとアーヴィン・シャピロはカンヌ国際映画祭の創立者の1人であり、その繋がりから(コンペ外ではあるものの)カンヌで上映することができたのだ。そして、その上映に偶然観客として来ていたのが、ホラー小説の帝王スティーブン・キングである(アーヴィンとキングは『クリープ・ショー』(82)で関わりがあった)。サム・ライミはキングに一言感想をもらおうとしたところ、なんとキングは「ちゃんとした批評を書くよ。引用も自由にしていいよ」と言い、その結果、雑誌「トワイライト・ゾーン」に「1982年で最も凶暴で独創的なホラー映画」と熱烈な批評を寄稿した。これが追い風となって、最終的にニュー・ライン・シネマが配給権を獲得、映画が完成してから1年半を経た1983年4月にアメリカで公開された。
余談だが、『The Book of The Dead』というタイトルを『Evil Dead』に変更させたのはアーヴィンだ。というのも、新聞広告を出す際に単価を下げるため、5単語から2単語(Evil Dead)に変更させたのだ。ちなみにサム・ライミはこのタイトルはあまり気に入ってはいなかった。