<もう一つの戦争>
スタンリー・キューブリックはナポレオンで果たせなかった想いを、ウィリアム・メイクピース・サッカレーの小説を映像化した『バリー・リンドン』に注ぎ込んだ。18世紀ヨーロッパの雰囲気を再現するため、人工光を使わず自然光のみで撮影したというエピソードは今や語り草。おそらくリドリー・スコットは、レンブラントやフェルメールを思わせる『バリー・リンドン』(75)の絵画的表現を、相当意識したことだろう。
ナポレオンとジョゼフィーヌ(ヴァネッサ・カービー)が初めて出会う『ナポレオン』の宮廷シーンは、蝋燭の明かりが揺らめくように俳優たちの表情を映し出しているが、そのライティングは『バリー・リンドン』の室内場面を彷彿とさせる。ナポレオンが威風堂々と自ら月桂冠を被る戴冠式の場面は、ルーヴル美術館で2番目に大きいとされる名画「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式」(ジャック=ルイ・ダヴィッド)のような壮麗さだ。美術大学で絵画を学んだリドリー・スコットの、ビジュアリストとしての矜持が垣間見える。
そして、歴史的な戦争の数々。ナポレオンはトゥーロンの戦いでイギリスと戦い、アレクサンドリアに遠征してエジプトを掌握し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍を打ち破り、ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセン連合軍を迎え撃つ。彼は権力への欲望に突き動かされ、300万人とも言われる人命を死に追いやってきた。その人生は戦いの歴史そのもの。撮影カメラ11台、8,000人を超えるエキストラを結集し、容赦のないゴア描写でリドリー・スコットは当時の戦争を再現してみせる。
そして、最も強大で、最も長い期間に渡って繰り広げられてきた<もう一つの戦争>も、巨匠はじっくりと丹念に描き出す。その相手は、最初の妻にして最愛の女性、ジョゼフィーヌだ。一目惚れしたナポレオンの求愛を受けて結婚した彼女は、夫が遠征に出かけた途端に愛人との情事に耽ってしまう。彼が何度も熱烈な恋文を送っても、氷のように閉ざされたジョゼフィーヌの心には響かない。かつてスタンリー・キューブリックは、
「ナポレオンの生涯の純粋なドラマとしての力強さは、伝記映画にとって素晴らしい題材だ。例えば、他の全てのことを放っておいてジョゼフィーヌに対するナポレオンのロマンチックな関わり合いだけを取り上げても、そこには、全時代を通じて偉大な一心不乱の情熱の一つがあるのだよ」(*5)
と語っている。だがこの作品では“ロマンチックな関わり合い”ではなく、トゥーロンの戦いやアウステルリッツの戦いと同じような<戦争>として描かれる。しかも、天才的軍略家ナポレオンをもってしても、制圧することが叶わなかった<戦争>を。158分という上映時間のあいだ、我々観客は戦乱の19世紀を絶え間なく目撃し続けることになる。