アンドリュー・ヘイのパーソナルな視点
小説を読んだアンドリュー・ヘイ監督はどこにひきつけられたのだろう? おそらく、その本を支配する濃厚な孤独ではないだろうか? 離婚歴のある男性とゲイの男性では、孤独のあり方が異なるが、世の中からどこか引き離されているような疎外感は共通する部分があると思う。
小説の主人公の両親は彼が12歳の時に交通事故で他界する。そして、祖父の家や親せきのもとで暮らすことになる。そのせいで、彼は甘える、という感情を封印して生きてきたようだ。
英訳版ではこんな一文が目をひく――“The perpetual stress I had been under since the age of twelve had rendered me woefully inept at accepting the good will of others.”(私は12歳の時から他人の温かい思いを素直に受け入れられない人間になり、そのことに苦しみも感じてきた)
その結果、前妻とも「人間的な温かみがない関係(lack of warmth in our relationship)」になっていた、と彼はいう。
今回の映画の原題は“All of Us Strangers”になっている。「しょせん、誰もが他人」。そう考えると、自分以外の人物を素直に受け入れられない主人公の孤立感が浮かび上がるタイトルに思える。
英語版の小説から浮かび上がる孤独の濃度は、ゲイであるヘイ監督が過去の作品で描き出した人物たちの孤独や疎外感をも思わせる。
『WEEKEND ウィークエンド』(11)は施設で育ったゲイの男性が主人公で、行きずりの関係で終わったはずの男性に断ち切れない思いを抱く主人公の姿が描かれた。この映画には『異人たち』を先取りしたような場面が登場する。主人公は成長した時、親がいなかったので、自分がゲイであることを告白できなかった。そこで相手の男性を父と考え、自分がゲイであることを伝える短い場面がある。
『異人たち』にも、亡くなったはずの両親と再会した主人公が、自身がゲイであることを伝える場面が登場する。心の奥にひっかかっているのに、ずうっと伝えることができなかった思いを言葉にする。どちらの映画でも、そんな場面が見る人の心に響く。
『異人たち』(C)2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
親を子供の頃に失う、という設定は、ヘイ監督の『荒野にて』(17)にも登場する。父親と暮す少年が主人公で、父親は不倫相手の夫に殺されてしまう。孤児となった彼は遠くに住む叔母に会うため、愛する馬を連れて荒野をさまよう。少年の行き場のない孤独や疎外感がリアルに描かれ、馬に対する彼の思いにも胸をしめつけられる。
一方、結婚45年目の夫婦の心の機微を描いたのが『さざなみ』(15)。夫婦はそれまで円満に暮らしていたが、夫が若かった頃に愛した女性の遺体が雪山で発見される。氷の中にいる彼女は若いままの姿で、夫にはかつての思いがよみがえる。夫が結婚も考えていたというその女性は、彼の子供を身ごもったまま亡くなった。青年時代へと頭の中でタイムスリップする夫。そんな彼に妻は複雑な思いを抱き始める。夫婦は子供がいないまま、老いの時を迎えようとしている。
こうした作品を通じて見えるのは、少年期(あるいは青年期)の孤独や孤立感である。『荒野にて』の孤立した少年は、他人の中で生きのびるために葛藤する。一方、『ウィークエンド』や『さざなみ』の大人の主人公は、過去の忘れ物を取りに戻るような体験をする。
監督が過去作品で描いてきたこうしたテーマは、今回の映画に引き継がれている。原作での中年の放送作家は、子供の頃、自分のもとから消えてしまった両親に再会することで、何か忘れていたものを取り戻す。英語版の小説で、彼らとの最初の出会いを主人公はこう振り返る――“That remarkable couple had lifted me free of the dark solitude in which I had become so helplessly mired.”(あの時、現れた夫婦(=両親)は、私の心を覆っていたどうしようもない深い孤独から私を救い上げてくれた)
こうした文章を読むと、人間の内側にある少年期や青年期の孤独感を描くことが得意な監督が、この本にたどりついたことにも納得がいく。