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『画家と泥棒』リアルかフェイクか? 3年半の密着取材が捉えた摩訶不思議な絆 ※注!ネタバレ含みます

© MadeGood Films 2024

『画家と泥棒』リアルかフェイクか? 3年半の密着取材が捉えた摩訶不思議な絆 ※注!ネタバレ含みます

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当事者が語るドキュメンタリーの裏側



 疑念を抱かれがちな主だったポイントを挙げてみる。この先はネタバレに抵触するので、気になる方は映画をご覧になってからお読みいただきたい。


1)なぜ映画の撮影が始まる以前の映像が存在するのか?


 チェコ出身のバルボラは、2014年頃にオスロに移り住んだ。その際にオスロ在住の友人のサポートを得て、絵を描くためのアトリエも無償で提供されていたという。


 そしてその友人が、バルボラの創作活動をドキュメンタリーにしようと撮影していた。映画の冒頭で描いている絵はベルティルが盗んだ「白鳥の歌」で、オスロで初めて描いた絵だった。リー監督はその友人の映像素材を提供してもらい、『画家と泥棒』に組み込むことができたのだ。


 ちなみにリー監督は英国の学生メディアSUBUのインタビューで、取材を始めた時点ではまだ防犯カメラの映像を入手できていなかったと明かしている。バルボラに防犯カメラの映像を見せたのはベルティルの裁判より後だったが、物語の起点としてその場面を裁判所の前に挿入した。物語のナラティブを優先するために、編集で現実の時間経過を操作した部分はある、ということだ。


2)ベルティルが自分の肖像画を見る場面はなぜ撮れた?


 同じインタビューでリー監督は、ベルティルの強烈な反応が撮影できたのは、すでに何度も撮影を重ね、バルボラもベルティルもカメラの存在を意識しなくなっていたからだと語っている。「3年半も彼らを撮り続ける姿勢と信頼があったからこそあの瞬間を撮ることができたし、撮影した素材の95%は特になにも起きていない退屈な映像なんです」というのがリー監督の弁だ。


 バルボラ側からの証言もある。映画では、ベルティルが初めて自分の肖像画を目撃したように見えるが、実際にはバルボラが描いた二枚目の絵だった(バルボラが交通事故で入院したベルティルの病室に見舞いとして持ち込んでいたのが最初に描いた絵だという)。


 ベルティルは一枚目の絵を見た時にも非常に強い反応を見せたが、映画に出てこないのは、純粋に「その時はカメラ(と監督)がいなかったから」とのこと。映画の文脈にない逸話なので、少なくとも2人の交流がフェイクやフィクションではない反証になると思うが、いかがだろうか。



『画家と泥棒』© MadeGood Films 2024


3)ベルティルのキャラが立ちすぎている問題


 『画家と泥棒』の吸引力は、率直で飾らないバルボラとベルティルの人柄に負うところも大きい。特にベルティルは麻薬中毒から抜け出せない自己破滅的な人物だが、次第に不幸な生い立ちや、知性や感受性の鋭さ、バルボラに見せる優しさなど、第一印象を覆す多層的な面が明らかになっていく。


 ベルティルは一種のカリスマ性が備わった、外見も内面も非常に映画的な人物だ。ただしバルボラによると、ベルティルが語った身上話には真実と思えないようなことも混じっていた。リー監督はベルティルの発言であっても、事実確認ができない内容は映画から外したという。この話を信じるなら、映画のベルティルは決して作為的に“盛られた”キャラではない。


 またリハビリ施設に向かうはずが、決意が揺らいでストリートでヘロインを買ってしまう場面は、ベルティルが映画から外してほしいと頼んだ箇所だった。リー監督はバルボラとベルティルに、映して欲しくない場面はカットすると約束していたそうだ。


 しかしベルティルは、しばらく経って「あの場面は絶対に映画に入れるべき」と前言を翻した。ベルティル自身が、この作品は「麻薬中毒の人間がどんな状態に陥るのか」を赤裸々に見せる必要があると考え直したのだという。


 ベルティルは一貫して「『画家と泥棒』は一度観ただけで、辛すぎて二度と観る気はない」と公言しているが、現在は麻薬中毒者のためのソーシャルワーカーとして働いており、映画に対しては感謝していると語っている。





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