宇宙船=地下の世界
アカデミー作品賞を受賞した前作『パラサイト 半地下の家族』(19)に限らず、ポン・ジュノの映画は主に“地下”を舞台にしてきた。『スノーピアサー』における雪原のディストピアを走るノアの箱舟のような列車の最後尾は、“持たざる者たち”が住む荒れたストリートのようであり、そこには“地下”のような灰色の雰囲気があった。同じように『オクジャ』のメタリックで殺伐とした屠殺所や、『ミッキー17』のダクトが剥き出しになった宇宙船の美術には、薄汚れたストリート、灰色の“地下”の雰囲気がある。その意味で宇宙船内の焼却炉の存在は際立っている。ミッキーは私たちの知っている現実世界と何一つ変わりのない古めかしいデザインの焼却炉に、ゴミのように捨てられていく。本作において宇宙船の乗組員たちが働くスペースは、汚れたストリートそのものであり、表の世界が隠そうとする“地下”の世界なのだ。
『ミッキー17』© 2025 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
“地下”のように見える薄汚れた世界。ポン・ジュノはクリーチャーや動物にただならぬ愛情を捧げてきた。ポン・ジュノの映画においては、世界の状況自体がクリーチャー以上に“怪物”的である。『グエムル-漢江の怪物-』(06)のクリーチャーは、子供の頃に夢中で集めていたネス湖のネッシーの写真がすべての原点だという。『オクジャ』におけるスーパーピッグは、人間の都合により遺伝子組み換えで生まれた資本主義の犠牲者だった。『ミッキー17』のアルマジロと昆虫を掛け合わせたようなクリーチャーは、惑星の“先住民”だ。この惑星は、戯画化された独裁者のような司令官ケネス・マーシャル(マーク・ラファロ)の計画によって植民地化されようとしている。料理に自信のある、マーシャルの妻イルファ(トニ・コレット)が、クリーチャーの尻尾を切ってソースの材料にしようとする。これは『オクジャ』のスーパーピッグの食肉化計画と同じような構造である。原作には登場しないイルファのイメージは、イメルダ・マルコスやエレナ・チャウシェスクといった、歴史上の“独裁者の妻”が参照されたものだという。
『オクジャ』のルーシー・ミランド(ティルダ・スウィントン)は映像制作により、企業のイメージ、明るい未来がこの国にやってくるイメージを操作しようとしていた。同じように『ミッキー17』の司令官マーシャルは、映像をイメージ戦略のために利用する。ポン・ジュノは、映像自体の強烈で祝祭的で破局的なダイナミズムだけでなく、映像のダイナミズムが扇動する群集心理の危険性を訴え続けている。何度も生き返る哀しく楽しいミッキーだけでなく、本作の“再生産”、“複製”というテーマは、同じ過ちを繰り返すこの世界へ向けての辛辣な皮肉と受け取ることもできる。もし私たちが、とんでもない数のクリーチャーたちによる反乱映像=レジスタンスの映像に恐怖や気味の悪さを覚えるとするならば、それは人類への強烈なカウンターパンチにほかならないだろう。ポン・ジュノの映画においてクリーチャーは、私たちの世界の鏡なのである。