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『天国の日々』マジック・アワー、“新しい女”としてのポートレート

© 2025, 1978 BY PARAMOUNT PICTURES ALL RIGHTS RESERVED.

『天国の日々』マジック・アワー、“新しい女”としてのポートレート

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マジック・アワー、光による追放



「きわめて例外的な光の状態で撮りました。マリックが“マジック・アワー”と呼んでいる時間におもに撮影したのです。準備などをして日中は待ち、太陽が沈むと同時に撮影を始めた。暗くなるまでに二十分くらいある。その時間の美しい光を利用しようと、夢中になってキャメラを回したものです。」(ネストール・アルメンドロス)*2


 『天国の日々』は“光の移ろい”が記録された映画だ。光が生まれ、消えていく。それは束の間の“天国”を描いた物語と強く結びついている。幸福のようなものが生まれるが、登場人物たちはそれをつかめない。適切な瞬間に生まれる適切な自然光の動き。本作における光は、生き物のように刻々と、しかし予期できないタイミングで変化していく。その意味で本作は、光の導く線に招かれ、光の強さによってエデン=楽園を追放される映画といえる。


 フランソワ・トリュフォー監督の『野生の少年』(70)における自然光を生かした撮影に感銘を受けたテレンス・マリックは、撮影監督のネストール・アルメンドロスに連絡をとる。2人の志向は完全に一致する。かねてよりネストール・アルメンドロスは、照明を使わず、自然光で歴史劇を撮ることを夢見ていた。光を再現するのではなく、光が生まれるのを待つ。昼間のインテリアには窓からの自然光だけを使う(フェルメールの「レースを編む女」が参照されている)。夜の室内はランタンや蝋燭、家庭の電球など、ありのままの光源を使う。2人は絵画作品や写真作品、技術的に洗練される以前のサイレント映画について、撮影前に意見を交わし合ったという。ネストール・アルメンドロスは、フランソワ・トリュフォーの『恋愛日記』(77)の撮影のため、本作の撮影を離脱している。後任のハスケル・ウェクスラーは、引継ぎの際「自然光を忘れるな」とネストール・アルメンドロスに念を押されたという。ハスケル・ウェクスラーは、“ありのままを撮れば正直な映画になる”というテレンス・マリックとネストール・アルメンドロスの哲学に必ずしも同意したわけではないものの、2人の哲学を尊重する形で見事にこの大仕事を引き継いでいる。完成した映画では、どちらが撮った映像なのかまったく見分けがつかない。



『天国の日々』© 2025, 1978 BY PARAMOUNT PICTURES ALL RIGHTS RESERVED.


 『天国の日々』の撮影が絵葉書のような質感と一線を画しているのは、光の動きそのものが捉えられているからだろう。ジャック・フィスクの美術やパトリシア・ノリスの衣装と幸福なマリアージュを果たしている。パトリシア・ノリスは本作の基調となるセピアがかった色彩に合わせ、白さの目立つ衣装を熱い紅茶に浸すことで独特の色彩に熟成させたという。本作全体が綿織物のようなノスタルジックでやさしい質感を保っている。アビー役のブルック・アダムスは、本当に1900年代の初頭に住んでいるようだったと回想している。


 テレンス・マリックがこだわるマジック・アワーの撮影。やわらかな光。空に光はあるが太陽はない。特別な光が生まれ、消えていく最後の瞬間を捉えた撮影。豊かな風景は一瞬で去っていく。過ぎ去ろうとしている時代。アメリカンドリームという幻想。私たちの幸せの儚さ。すべてが消え去っていく。かつて納屋の中でビルがアビーに言った言葉が、皮肉のように彼の元に返ってくる。2年もすればここを出るのだから、“完璧に振る舞ったところで、誰が気にする?”。




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