2025.05.07
カメラそのものになる
『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』のファーストショットは、『TOKYO!』(08)のムッシュ・メルド(ドニ・ラヴァン)が裁判にかけられるシーンの引用だ。このときムッシュ・メルドは、理解不能な“メルド語”を話している。はじめに声ありき。本作において“メルド語”は、赤ん坊の産声、意味を介さない純粋な音として解釈できる。人々は理解不能な声に戸惑い、ムッシュ・メルドをグロテスクだと認識し、恐怖を覚えるが、言葉によって疎外されているのは、むしろムッシュ・メルドの方である。人間の発育過程において、赤ん坊は言語社会に疎外されるが、子守歌のメロディーによって救済される。はじめに声ありき、否、はじめに歌ありきである。『アネット』のベイビー・アネットが、言葉を覚える前に歌を習得していたことを思い出そう。ムッシュ・メルドの言葉は原始の音であり歌だ。劇中のレオス・カラックスは、最近の社会情勢について公園でムッシュ・メルドに相談する。ドニ・ラヴァンのインタビューによると、このシーンの2人は“メルド語”で会話をしているという。レオス・カラックスは聴覚の原始的体験へと戻っていく。そして視覚=映画の原始を探求する。
『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』© 2024 CG CINÉMA • THÉO FILMS • ARTE FRANCE CINÉMA
子供時代にナチスやヒトラーのイメージに怯えていたレオス・カラックス。『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』には、1939年にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたナチス集会の映像が引用されている。この集会に乗り込んだレジスタンスのイサドール・グリーンバウムが、ヒトラー打倒を叫び、ステージ上で暴行を加えられ、引きずり降ろされた歴史的な出来事。この映像は、フランク・キャプラが撮ったドキュメンタリー映画『ナチス侵攻』(43)でフッテージ映像として使用されている。また、このときの映像を編集した短編『庭での夜』(17)が、アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされている。興味深いのは、フランク・キャプラの使ったフッテージと『庭での夜』のフッテージでは、カメラ位置がまったく違うということだ。つまりこの集会は複数のカメラによって撮られていたということになる。20世紀の独裁者だけでなく、21世紀の独裁者も映像によってイメージをコントロールしようとする。レオス・カラックスは、この集会がカメラに捉えられ、記録が残っていることの重要性とカメラという機械の持つ役割そのものに焦点を当てているように思える。
ジガ・ヴェルトフによる『カメラを持った男』(29)の映像が引用されているのが象徴的だが、『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』にはカメラという機械が作りだしてきたイメージへの称賛と疑問が描かれているといえる。1939年のナチス集会の映像が、とてつもない恐怖を与えると同時に、イサドール・グリーンバウムの孤独な闘いを讃える映像にもなっているように。
レオス・カラックスのフィルモグラフィーはカメラ=瞳の歴史といえる。『ボーイ・ミーツ・ガール』(84)のミレーユ(ミレーユ・ペリエ)の目元のメイクから始まり、本作に引用されている『汚れた血』のアレックスの死に際の瞳、『ポンヌフの恋人』における失明の危機にあるヒロイン、ミシェル(ジュリエット・ビノシュ)。『ホーリー・モーターズ』におけるカメラがどんどん小さくなることへの言及。『アネット』のマリオネット、ベイビー・アネットの瞳。そしてこのテーマに倣うならば、『ポーラX』のラストカットは浮遊するカメラの視点といえる。『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』に引用されているこのショットは、ピエール(ギョーム・ドパルデュー)の身体から幽体離脱のように離れていった浮遊する瞳=カメラの視点である。レオス・カラックスは、カメラがどんどん小さくなり軽くなっていることを憂いているが、同時にカメラという機械の役割を早急に再発明する必要性を説いている。