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『けものがいる』ベルトラン・ボネロによるレア・セドゥ論、浄化に抗うために

©Carole Bethuel

『けものがいる』ベルトラン・ボネロによるレア・セドゥ論、浄化に抗うために

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ベルトラン・ボネロによる“レア・セドゥ論”



 「自分ではないものを演じることはできないと思います。ある意味、常に自分自身のバリエーションです。これまで演じてきたキャラクターは、私のバリエーションなのです。」(レア・セドゥ)*2


 レア・セドゥはこれまで演じてきたすべてのキャラクターを“自分自身”だと定義している。自分とかけ離れたキャラクターとは言わない。また、俳優とは自分自身を研究することだと語っている。レア・セドゥとは3回目の作品となるベルトラン・ボネロは、『けものがいる』のガブリエル役をレア・セドゥにあて書きしている。はじめにレア・セドゥありき。レア・セドゥという俳優を研究したいベルトラン・ボネロと、自分自身を研究したいレア・セドゥ。2人の盟友関係、映画への志向が交錯する幸福な地点にこの映画は存在する。


 ガブリエルが人形の表情を真似して「ニュートラル」な表情だと語るシーンは、レア・セドゥという俳優の本質を突いている。ガブリエルはニュートラルな表情のまま、しばらく静止する。時間が止まったかのようなこの美しいシーンには、レア・セドゥという俳優の持つニュアンスの豊かさが炸裂している。ガブリエル=レア・セドゥの表情には不安がある。誘惑がある。反抗がある。悲しみがある。ミステリーがある。つまり彼女の表情はどのようにも解釈できる。どのような色にもなれる。単線的なエモーションの発露には絶対にならない。ここには乱調の美がある。レア・セドゥはスクリーンに“感情の乱調”を引き起こすことができる稀有な俳優なのだ。



『けものがいる』©Carole Bethuel


 DNAに刻まれた感情の歴史を描いた本作において、ガブリエルの感情は“定点的”ともいえるが、レア・セドゥのパフォーマンス自体は過剰なほど変化に富んでいる。やりたい放題ともいえる。あらためてレア・セドゥという俳優の、演技のバリエーションの豊かさに驚かされる。ほとんど、レオス・カラックス監督『ホーリー・モーターズ』(12)のドニ・ラヴァンのような七変化状態である。ベル・エポックの煌びやかな衣装を纏う1910年のガブリエル。オーディションに明け暮れる2014年の孤独なモデル。知性に自信を持ち、AIによる浄化と忘却に抗う2044年のガブリエル。そしてレア・セドゥのダンススキルの高さ。指先にまで神経や意思を宿らせることができるパフォーマンスが惜しみなく披露されているのも、彼女のファンには嬉しい限りだ。


 レア・セドゥの人形性とダンスは、ベルトラン・ボネロの作家性と交錯する。イヴ・サンローランを描いた『SAINT LAURENT サンローラン』(14)におけるマネキン。または少年少女のテロリストを描いた大傑作『ノクトラマ 夜行少年』(16)におけるマネキン。『けものがいる』でポインター・シスターズの曲で踊るシーンは、クラブでソウル・ミュージックがミックスされていく『サンローラン』の、ルル・ドゥ・ラ・ファレーズ(レア・セドゥ)のダンスへのセルフオマージュのように響く。そして人形というテーマは、『けものがいる』に向け予備スケッチのように撮られた傑作『Coma』(22)とつながっている。『Coma』という作品には、ベッドルームの少女とミニチュアハウスの人形の世界と、この世のどこでもない“フリーゾーン”が交錯するように描かれている。『けものがいる』はグリーンバックの前で演じるガブリエルから始まる。バーチャルな世界への導入。ガブリエルの恐怖の演技はデジタルのブロックノイズに塗れていく。





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