
© NORDISK FILM PRODUCTION / LAVA FILMS / NORDISK FILM PRODUCTION SVERIGE 2024
『ガール・ウィズ・ニードル』なぜその針は女性たちを無慈悲に突き刺すのか ※注!ネタバレ含みます
2025.05.20
古典主義的演出+現代的な意匠
“北欧史上、最も物議を醸した連続殺人事件――人間の闇と光を描くゴシック・ミステリーの傑作”。『ガール・ウィズ・ニードル』には、このようなコピーが踊っている。確かに“北欧史上、最も物議を醸した連続殺人事件”なのだろうし、“人間の闇と光を描くゴシック・ミステリー”かもしれない。
だがこの映画は、デヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』(07)のような、謎の連続殺人鬼の正体を解き明かそうとする作品ではない。カロリーネはなぜ子供を諦めなければならなかったのか。ダウマはなぜこのような凶行に及んだのか。そして、なぜ子供たちは犠牲にならなければならなかったのか。マグヌス・フォン・ホーン監督が眼差すのは、当時の社会システムであり、家父長制だ。
女性の身体は、ジェイソンのようなシリアル・キラーではなく、社会そのものから傷つけられる。凡百のホラー映画よりも恐ろしい状況。それを表現するにあたり、監督はあえて古典的な表現形式を採用した。
「私たちは、純粋な社会的リアリズム映画を作りたいのではなく、創造的な方法でその世界にアプローチしたかったのです。当時作られていた映画や映像からインスピレーションを得て、当時のホラー映画で使われていたドイツ表現主義の要素を用いることで、その世界を再現しようとしたのです」(*2)
ロベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』(20)、F・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22)、フリッツ・ラング監督の『M』(31)といった、ドイツ表現主義のマスターピースたち。『ガール・ウィズ・ニードル』もまた、都市の混沌や、カロリーネが日々感じているであろう抑圧が、コントラストの強い明暗/斜角的な構図によって描出されている。
『ガール・ウィズ・ニードル』 © NORDISK FILM PRODUCTION / LAVA FILMS / NORDISK FILM PRODUCTION SVERIGE 2024
それだけではない。戦争で顔を失ったカロリーネの夫の造形は、トッド・ブラウニングの『フリークス』(32)を彷彿とさせるし、仕事を終えたお針子たちが一斉に工場から出てくるショットは、世界初の実写商業映画と呼ばれるリュミエール兄弟の『工場の出口』(1895)のようだ。ドイツ表現主義を飛び越え、映画そのものの起源にまで射程を広げて、マグヌス・フォン・ホーンは観客の映像的記憶を呼び起こす。
かといって、『ガール・ウィズ・ニードル』が古典主義一本槍な作品かといえば、そういう訳でもない。ムンクの「叫び」のごとく、苦悶の表情を浮かべる人間の顔がオーバーラップするオープニングは、イギリスの映像作家クリス・カニンガムのようなダーク・テイスト。映画を彩る音楽は、インダストリアル ・ノイズ/ドローン・ミュージック系の電子音楽だ(スコアを担当しているのは、プース・マリーの名前で活躍しているアーティストのフレゼレケ・ホフマイア)。ところどころに現代的な意匠が施されている。
中絶の権利、貧困、家父長制は“かつて”の問題ではなく、“いま”の問題。映画が問いかけるものは、我々が住むこの世界とダイレクトに繋がっている。ストーリーは寓話性を帯びているものの(=古典主義的演出)、テーマは現代的(=OP、音楽)という二重性に、マグヌス・フォン・ホーンは独特のアプローチで迫っている。