2025.06.04
たらいまわしになったシナリオ
『if もしも....』の発案者は、当時は映画とは関係のない世界にいたふたりの若者、デヴィッド・シャーウィンとジョン・ハウレットだった。幼ななじみだったふたりは、1950年代にトンブリッジ・パブリック・スクールに通っていた。“British Cult Movies Since the Sixties:Your Face Here”(アリ・カターラル、サイモン・ウェルズ著、英国のフォース・エステイト刊)で引用されたシャーウィンの手記によると、「そこでは、毎夜、むち打ちと男色行為が行われていた」のだという。
やがて、ふたりはオックスフォード大学に入学。新しいヨーロッパ映画の数々に衝撃を受け、自分たちもシナリオを書くことで、かつて在籍したパブリック・スクールのおぞましい実態に復讐したいと考え、脚本を書き始めた。完成した作品のタイトルは『十字軍(クルセイダーズ)』。
その脚本を最初に手渡された映画製作者のロード・ブラボーンは「これまで読んだ中で最もおぞましく、ねじれた内容である」という感想をもらしたという。やがて、演劇界のトップ・エージェントだったペギー・ラムゼイのところに、そのシナリオは届けられた。彼女はおもしろい内容だが、劇映画ではなく、ドキュメンタリーの方がいいかもしれない、と感想をもらしたという(蛇足ながら、ラムゼイは、英国ではデヴィッド・ヘアやジョー・オートンを始め、多くのすぐれた劇作家を発掘している人物。スティーヴン・フリアーズ監督の『プリック・アップ』(87)では、ヴァネッサ・レッドグレイヴが彼女の役を演じていた)。
その後、シナリオはニコラス・レイ監督のところに届いた。シャーウィンたちは彼の『理由なき反抗』(55、ジェームズ・ディーン主演)が気にいっていたという。しかし、レイ監督は体調不良となり、結局、映画化には至らなかった。
『if もしも....』(c)Photofest / Getty Images
そして、それはイーリング・スタジオの編集者・製作者・監督だったセス・ホルトのところに届く。彼は脚本に興味を持つが、自分が監督としてかかわる作品ではないと判断し、彼の友人だったリンゼイ・アンダーソン監督のところに届けられる。60年代前半から、さまざまなところをたらいまわしになって、やっと、66年にアンダーソンのところに脚本が届けられたのだ。
『十字軍』と題された脚本を見て、胸をはずませながら開いたアンダーソン。しかし……「読んだ後、大きな失望感に襲われた。アナーキーで、詩的な要素が入っているところはいいが、あまりにも青くさいと思った。彼ら自身が監督した方がいいと思った」とアンダーソンは彼のエッセイ集『Never Apologise:The Collected Writings』(英国のPlexus刊、ポール・ライアン編)の中で当時のことをふり返っている。
そこでセスは、せめて、ふたりの若者に会うだけでもいいから、と監督を説得。「そこで私はグリーク・ストリートにあるピラーズ・オブ・ハーキュリーズというパブで会った。結局、彼らのことが好きになった」とアンダーソンはエッセイ集の中で振り返る。内容のインパクトを弱めることなく、脚本に手を入れた方がいい、と提案して、ふたりはそれを受け入れた。ハウレットは、セスの別の映画の手伝うことになって、途中でこの企画をぬけ、最終的にはシャーウィンだけが、アンダーソンと共同作業を始め、シナリオを改稿していく(この出会いが縁で、シャーウィンはその後も脚本家として、この監督とコンビを組んでいる)。
この企画に関して、アンダーソンは振り返っている――「そのロマンティックな反抗心にすごく共感できたが、それだけではなく、私自身の経験が反映されている点にも興味を持った。学校での経験だけではなく、私自身の社会での経験も反映されている。この映画を作ることは、初めからひじょうにパーソナルな経験に思えた」
アンダーソン自身もかつてはパブリック・スクールに通い、オックスフォード大学に入学した経緯があり、その学校の描写に共感したようだ。
こうしてアンダーソンの協力のもと、劇中ではそれぞれのエピソードにタイトルをつけ、各挿話を並べていくスタイルをとった。そして、エピック(叙事詩)的なスタイルをめざしたという。作られた時代が特定できる音楽や小道具はあえて排除していった。そして、アンダーソンの友人の発言にヒントを得て、『十字軍』は『if もしも....』のタイトルに変更される。