2025.06.04
ジャン・ヴィゴ『新学期 操行ゼロ』へのオマージュ
アンダーソンがこの映画の製作にあたって参考にしたのは、フランスの監督、ジャン・ヴィゴが33年に作ったモノクロの中編『新学期 操行ゼロ』である。全寮制の学校にいる生徒たちの抑圧と反抗をユーモラスな語り口で描いた傑作として知られている。
中心になるのは、3人の少年たち。『if もしも....』でも軸になるのは3人の10代の青年なので、この作品を意識した構成なのだろう。ヴィゴはアンダーソンがリスペクトしている監督であるが、この映画ともう1本の傑作『アタラント号』(34)を残し、34年に29歳で他界している。
『新学期 操行ゼロ』は休暇の後、生徒たちが学校に戻るところから始まるが、『if もしも....』も同じような設定である。学校の規律は厳しく、学校の教師に反発する悪童たちが主人公である。ルールに従わない彼らは日曜日の外出を禁じられる。やがて、怒りが頂点となり、記念の式典が行われている時、屋根の上った悪童たちが反抗的な態度に出る。こうしたクライマックスの設定も『if もしも…』に引きつがれている。アンダーソンの映画では、開校500周年の記念日に暴力事件が起きる。
「『if もしも....』は『新学期 操行ゼロ』のアナーキーな精神だけではなく、その叙事詩的な要素も引き継ぎたかった」とアンダーソンは語り、この映画をシャーウィンと一緒に見たようだ。「私の『if もしも....』はヴィゴの映画からアイデアを盗んでいる、とも言われたが、私としては、それが事実であることを喜んで認めたい」と彼は前述のエッセイ集に書いている。
『新学期・操行ゼロ』予告
そして、両方ともクライマックスで、屋根の上で起こる暴力行為が描かれている点も共通点だが、これに関してアンダーソンは記述する。
「ヴィゴの描写はコミカルで、茶目っ気があるが、私たちの描いた暴力は致命的なものだ。我らが主人公のミック・トラヴィスは、やけっぱちな気持ちで発砲していて、むしろ、エスタブリッシュメントの巨大な力にからめとられていることを示唆している」
ただ、アンダーソンはエッセイでこうも書いている――「ヴィゴは無邪気な思いをエンディングに託したが、それによってこの映画が救われたわけではなく、エスタブリッシュメントに目をつけられ、一般公開が禁じられるようになった」
『新学期 操行ゼロ』は本国フランスでは1933年にパリで初公開されたものの、12年間上映禁止となり、1945年に再公開となった。日本での初公開は1976年。製作から40年以上経過してから輸入されている(フランス映画社が配給し、ジャン・コクトー原作の『恐るべき子供たち』(50)と2本立てで、三百人劇場にて上映)。
『if もしも....』と『新学期 操行ゼロ』の比較に関しては、映画評論家の筈見有弘氏が84年に刊行された「ヨーロッパ映画200」(キネマ旬報刊)の中でこんな興味深い指摘もしている。
「(アンダーソン)は(敬愛していた)ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』の学園内の暴力をパワーアップして見せる。学園のあり方を批判し、告発するばかりではなく、イギリス人らしく、サタイアの世界に発展させようとする。むろん、そこで矛先を向けられたのは、パブリック・スクールにとどまらない。“英国病”の病根である権威主義そのものである」
『if もしも....』(c)Photofest / Getty Image
その後、アンダーソンはケンブリッジ大学の学長役で『炎のランナー』(81)に俳優として出演。彼が揶揄していた大学の権力者役を彼自身が演じている(なんとも奇妙な印象を残す)。
『if もしも....』の脚本が仕上がった後、製作費を集めるのは楽ではなかったようだ。「こういうオリジナリティとリスクのある英国映画の製作費を集めるのは、いつも本当に大変だ』とアンダーソンはエッセイ集の中で振り返る。英国のほとんどの配給会社から断られたそうだが、最終的にはパラマウント映画のチャールズ・ブラッドホーンが興味を持った。それというのも、アンダーソンの友人であるふたりの俳優、アルバート・フィニーとマイケル・メドウィンが協力してくれたからだ(後者は製作者となる)。内容が「あまりにも英国的すぎる」というのが、多くの配給会社で出資を渋った理由だが、ふたを開けてみると、意外な反応が待っていた。
「この映画がより大きなインパクトを持ったのは、アメリカやヨーロッパの他の国々だった。(中略)英国の出資者は考え直した方がいいと思う。その地域の独自の個性が出ている内容でも、映画が国境を超えていけるのだから。(中略)英国人よりも、アメリカ人のほうが、この作品を受け入れる準備ができていたことが証明されたのだ」
完成した作品は、英国では女性の正面からのヌードが出てくるという理由もあって、成人指定となり、18歳以下は見ることができなかったという。また、ギリシャでは、ラストシーンがまるごとカットされて公開され、ポーランドでは映画祭では上映されたものの、一般公開はできなかった(そのため、海賊版の映画で見た観客もいたという)。「あるポーランド人に会ったら、映画がカラーで驚いた、といわれた。その海賊版はすべてモノクロだったそうだ」とアンダーソンはエッセイ集に記述している。製作までの道のりも長いが、完成後も議論を呼んだ作品であることは間違いない。