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『メガロポリス』コッポラによる美獣乱舞の世紀、未来の想像力へのバトン

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『メガロポリス』コッポラによる美獣乱舞の世紀、未来の想像力へのバトン

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時よ、止まれ!進歩よ、止まれ!



 カエサルと恋に落ちるジュリア(ナタリー・エマニュエル)は、古代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスによる言葉を引用する。「人生の目的は多数派の側に立つことではない」。ニューヨークという都市を古代ローマのイメージと重ねる『メガロポリス』は、紀元前63年のルキウス・セルギウス・カティリナによるクーデターに着想を得ている。クーデターから国家を守ったとされるキケロとの対決。カティリナを“悪”、キケロを“善”とする伝統的な描かれ方にコッポラは疑問を感じていたという。カティリナの急進的な思想の中にこそ、世界を正しい方向に導く先見性があったのではないかという疑問。そこには歴史というものが、勝者の側によって綴られてきたことへの疑問がある。かつて大島渚は同じことを語っている。「敗者は映像を持たない」。アダム・ドライバーが演じるカリスマ性のある急進派のカエサルと、保守派の権力者キケロ市長(ジャンカルロ・エスポジート)による対立。しかし市長の娘ジュリアがカエサルと恋に落ちるところに、コッポラの映画にふさわしい家族内の亀裂が生まれる。


 物議を醸す天才建築家カエサル。アダム・ドライバーはカメラの前に全身を投じるように演じている。レオス・カラックス監督の『アネット』(21)で演じたスタンダップコメディアンのヘンリーと同じ悪魔的なテンションが、ここには宿っている。『アネット』のヘンリーと同じく、カエサルにも妻を殺した疑惑がある。悪魔のような魂を内に秘めている野心家のカエサルは、民衆を扇動するパフォーマーだ。救世主なのか?詐欺師なのか?カエサルが『モダン・タイムズ』(36)のチャールズ・チャップリンのイメージに重ねられるシーン。恋人のジュリアとコロッセオの舞台の裏で綱引きのようなパントマイムをするシーン。カエサルが“ニュー・ローマ”の構想を木製の模型の上で演説するシーンにおける、ジャック・タチ監督『プレイタイム』(67)へのオマージュ・ショット(コッポラは、ジャック・タチが私財を投じて破産に追い込まれた『プレイタイム』の熱烈な支持者だ)。カラックスと同じくコッポラは、アダム・ドライバーの喜劇役者のようなパフォーマンスの中に得体のしれない“エンジン”、何より“怪物性”を見出している(カラックス映画との共振性でいえば、『メガロポリス』における黒い高級車での移動は、『ホーリー・モーターズ』(12)のリムジンを想起させる)。



『メガロポリス』© 2024 Caesar Film LLC All Rights Reserved.


 カエサルが巨大建築物の上から一歩足を踏み出す際の、「時よ、止まれ!」という叫びは、『メガロポリス』に多大な影響を与えたSF映画の古典『来るべき世界』(36)と著しく呼応している。“進歩よ、止まれ!”。スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(68)にも多大な影響を与えた『来るべき世界』は、科学の進歩が人類にもたらす可能性と疑念が描かれている。1940年のクリスマスから2036年までを描いたこの傑作を、コッポラは子供の頃に見ている。『メガロポリス』のビルの壁に映る人影のゆらめきは、『来るべき世界』に描かれた、行進する兵士たちの人影が映る壁の前で無邪気に遊んでいた少年のイメージと重なっている。幼き日のコッポラは、この少年のイメージに自身を重ねていたのであろう。コッポラは子供の頃に感じていた恐怖を表現している。『メガロポリス』におけるスペクタクルな映像は、ファシズムや迫り来る戦争への恐怖と結びついている。





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