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『蟲』ヤン・シュヴァンクマイエルが最後の劇場長編に刻んだものとは

© Athanor Ltd.

『蟲』ヤン・シュヴァンクマイエルが最後の劇場長編に刻んだものとは

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無意識的に伝えるメッセージ



 ここで驚かされるのは、言っていることが事実に即していないと感じられるところだ。そもそもヒトラーが憧れ参考にした、イタリアのベニート・ムッソリーニもまた、ヒトラーやスターリン同様の「全体主義」を先んじて主導し、その萌芽は『虫の生活』発表前から生まれていた。ナショナリズムの高揚を利用した国家体制は、さらにその前から歴史上存在していたことも確かなことだ。


 また、チャペックは自ら『虫の生活』のなかで軍国主義的なキャラクターを登場させたことに言及し、作品への保守的な視点からの批判に皮肉を述べている。これらの事実から見れば、少なくとも、チャペックが政治的な挑発を作品に含ませていたことは十分に考えられることであり、一方的に「政治的メッセージはない」などと断言することはできないはずある。


 そして、「説教くさい作品を作らない」という秘訣を述べるシュヴァンクマイエル自身も、体制の批判とみなされ政府の弾圧を経験している。そして、チェコに影を落としていたソ連の影響から、民主化革命までを描いた『スターリン主義の死』(90)をも制作しているのが、シュヴァンクマイエルという作家なのである。そんな彼が、政治性と無縁な作品づくりをしてきたという主張には、本人の言としても、いささか無理がありそうだ。



『蟲』© Athanor Ltd.


 では、なぜ彼はそういった主張をあえて述べたのか。ここで説明される通り、「テーマは自分でも分からない」、「自動書記のように言葉が生み出された」という話を信じるならば、長編『サヴァイヴィング・ライフ -夢は第二の人生-』(10)がそうだったように、無意識や夢の感覚を具象化するシュルレアリストとしての作品アプローチに正しく殉じながら、自身の発したいメッセージを、あくまで無意識的なかたちで伝えようとしていることが窺える。


 だから例えば、しばしば「政治的」であると解釈されてきた彼の代表的な短編『対話の可能性』(82)や『男のゲーム』(88)などの作品もまた、単に意識下のヴィジョンであったり、厭世の表現であったりと、多面的に解釈できるバランスを保ってきたといえる。そんな作風は、体制からの自衛としても、芸術家としての彼の地位を押し上げることにも、これまで機能してきたといえよう。それはある意味で、チャペック兄弟もそうだった。





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