解釈を拒否し、理解されざる地点へ
チェコで隆盛した「ストップモーション・アニメーション」は、「アードマン・アニメーションズ」や「ライカ」、ティム・バートンやウェス・アンダーソン、はたまた見里朝希などの、スタジオやクリエイターが時代とともに登場してきたことによって、現在はより多くの観客に愛され、“手作りの風合い”を受け継ぎながら表現の進化を続けている。同時に、かつてシュヴァンクマイエルの作品が政治的な議論を呼び、『悦楽共犯者』(96)のショッキングな描写で波紋を生んだように、政治的な主張や強烈な表現においても、他の作家たちが次々に活躍している。
そんな状況下において、多くのクリエイターたちに多大な影響を与えてきたシュヴァンクマイエルは、多方面からの尊敬を集めながらも、現役のクリエイターとして特権的な位置に居続けられたわけではなかったといえる。「最後の長編」であるという本作もまた、製作資金に苦労し、クエイ兄弟やギレルモ・デル・トロなどの協力も受けて完成にこぎつけたのだ。
そこでシュヴァンクマイエルが自身の集大成として送り出すのであれば、『虫の生活』という政治的なモチーフを利用しながら、再び夢と無意識の世界に漕ぎ出していき、自身の作家性を追求していくしかなかったはずなのだ。だからこそ、ここで彼は挑発的に本作の政治的な“読み”をあえて牽制し、一面的な理解を回避しながら、いたずら好きな少年のような作風を持つチャペック兄弟にシンパシーをおぼえつつ、自身そのものといえる作風を定義し直したと考えられるのだ。
『蟲』© Athanor Ltd.
虫同士や人間と虫の食い合い、窓から見渡せる奇妙な風景、フンコロガシの巨大なフン玉の襲撃、幼虫による性的なモチーフや不道徳な捕食のイメージ、演出家の妻の突然の出産と子どもの急成長……。最後のシークエンスで顔を見せる、往来で出会う労働者、観光客、ホームレス。その全てに意味深げな印象を残しながら、本作はチャペック同様の能天気なセリフでストーリーに幕が下ろされる。
そして、不条理な展開が続いたうえでの、名状し難い混沌とした結末の後に差し込まれた、シュヴァンクマイエル自身のクスッとさせられるラストシーン。それは一見、可愛げのある観客への呼びかけに見える。だが、解釈を拒否しながら、理解されざる地点への着地を見せる、彼の姿が映る短いカットは、彼がその一流の老獪さによって、作家としての存在意義を映画史の1ページに刻印として押し直そうとする、油断できない瞬間なのである。
文:小野寺系
映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。
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『蟲』
シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中
配給:ザジフィルムズ / クープ
© Athanor Ltd.