視覚のハックと人工美の肯定
およそ90年前に作られた作品が、なぜ現在に至るまで参照され続けているのだろう。その理由は、この映画が提示するイメージが、あまりにも明快な共通言語(記号)として構築されているからだ。
ルビーの靴、黄色いレンガの道、巨大な竜巻。これらは単なる小道具の域を超え、一目見ただけで誰もがその意味を理解できる、ユニバーサルなアイコンとなった。現代の作り手たちは、複雑な状況を言葉で説明する代わりに、これらの記号を暗喩として配置する。それだけで観客の無意識にアクセスし、イメージを一瞬で共有できる。いわば、最高に効率の良いリファレンス・キットとして機能しているのだ。
その第一のプロトコルが、現実を書き換える視覚的ハックだ。セピア色のカンザスから、極彩色のオズへ。竜巻に遭ったドロシーが扉を開けたあの瞬間、ここは異なる世界であるという事実を、野暮な説明抜きで観客の脳に叩き込む。これは今なお、別世界へのログインを承認させるための標準プロトコルとして機能している。
例えば、ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』(23)。主人公ベラが館を飛び出し、未知の外の世界へ踏み出す瞬間、スクリーンは埃っぽいモノクロから極彩色へと一変する。これは単なる演出ではなく、彼女の意識が覚醒したことを告げる視覚的なファンファーレだ。
ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』(87)では、永遠を生きる天使の灰色の世界が、人間へと堕天した瞬間、輝かしいカラーへと跳躍した。アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』(79)では、セピア色の荒廃した現実が、聖域ゾーンへと足を踏み入れるやいなや、鮮やかな色彩に包まれた。新たな現実を立ち上げるための装置として、クリエイターたちは今もこの1939年製のプロトコルを活用しているのである。

『オズの魔法使』(c)Photofest / Getty Images
第二のプロトコルは、「作り物であること」を逆手に取った自己変革の肯定だ。『オズの魔法使』の世界は、書き割りの青空やプラスチックのような植物など、驚くほど人工的な質感に満ちている。この徹底した虚構性は、そこに生きるキャラクターの在り方にも波及した。特に象徴的なのが、ブリキ男である。
彼はもともと生身の人間だったが、呪われた斧で手足を失うたびにブリキの義肢で補い、最終的に全身が機械に入れ替わってしまったという過去を持つ。彼は「心がない」と嘆きつつも、自らのパーツをひとつずつ書き換え、アップデートしていくのだ。ブリキ男は、生まれ持った肉体や属性を完成品と見なさず、カスタマイズ可能なアバターとして定義されている。
「人工的な世界で、自分をデザインし直す」というプロトコルを、最も鮮やかに現代へ蘇らせたのが、グレタ・ガーウィグ監督の『バービー』(23)だ。劇中のバービー・ランドは、人工的なピンクのプラスチックで構築されている。これはまさに現代版の「オズ」だ。バービーは、完璧に作り込まれた虚構の世界から、あえて不完全な現実へと足を踏み出し、自らの意思で人間になることを選択する。与えられた型(属性)を拒絶し、なりたい自分を自ら定義する…その姿は、かつてブリキ男が求めた「心」への旅路と見事に重なる。
主演のジュディ・ガーランドが、後にLGBTQ+コミュニティにおいて「自分たちの色(虹)を誇る」ための不朽のアイコンとなったのも、決して偶然ではない。セピア色の抑圧的な日常を飛び出し、過剰な色彩と人工美に満ちた世界で、別の何者かへと変身する物語。「自己を書き換える自由」という、極めて現代的なアイデンティティのテーマを先取りしていたのである。