バニシング・ポイント
『砂丘』のパブリシティを務めていたビヴァリー・ウォーカーは、アントニオーニの言葉をよく覚えている。「この砂漠のすべては、ロサンゼルスの人々が水を飲めるようにするために生まれた」。大都市ロサンゼルスから砂漠のデスヴァレーは、車で行くことが可能な距離にある。だからこそアントニオーニは、都市空間から映画を始めている。都市の近くにある月面のように美しい砂漠。警官殺しの罪で追われているマークは、ポップアートのような都市を抜けだし、模様のようになったロサンゼルスの風景をセスナ機から俯瞰する。アメリカが遠くなっていく。地上の重力から解き離たれ、月の砂漠のような世界へ向かっていく。余談だが、本作の撮影と同時期に、そう遠くない場所で、デニス・ホッパーは『イージー・ライダー』(69)を撮影していた。常に若い映画作家の作品に関心を持っていたアントニオーニは、『イージー・ライダー』を支持している。『砂丘』と同時代的なつながりを感じる他の作品は、ジャン=リュック・ゴダールの『ウイークエンド』(67)のような映画だろう。『赤い砂漠』(64)を絶賛していたゴダールは、アントニオーニにインタビューしている。アントニオーニもまた、ゴダールの映画にシンパシーを抱いていた。
ピンク・フロイドによる危険なほどドラッギーな音楽が流れる中、若者たちによる集会が描かれる。アントニオーニは、社会運動に励む若者への共感を惜しまなかった。同時に、若者が自分たちへの警戒心を持っていることにも敏感だった。MGMスタジオという大会社は、彼らにとってまさしく敵以外の何物でもなかった。アントニオーニは学生たちの協力を得るところから始めている。また、刻々と変化する情勢に対応できるように、脚本を完成させず、リアルタイムなドキュメンタリー性を心掛けていたという(硬質な作風なので意外な感じもするが、この時期のアントニオーニは絵コンテを用意していない)。多くの若いスタッフを迎え入れ、当時新進気鋭だったアナーキスト的劇作家サム・シェパードと共に英語の台詞を練っている。集会のシーンには、ブラック・パンサー党の幹部であるキャスリーン・クリーバーが出演している。議論に加わらず、観察者のようだったマークが唐突に発言する。
「僕も死ねる」
「ここ以外で」

『砂丘』©2026 WBEI
反体制派には属しているが、マークはひどく孤立しているように見える。マークは集団での戦いをあまり信じていないように見える。警官との衝突を契機に、マークは自分を縛る重力から逃避する。追放される。飛行する。“ハイになる”。この映画において、“ハイになる”ことは覚醒を意味する。消失を意味する。バニシング・ポイント(消失点)。アントニオーニのフィルモグラフィーは、色彩を探求する『赤い砂漠』が分岐点と言われることがあるが、この映画作家にとって消失というテーマは常にコアにあり続けている。『太陽はひとりぼっち』(62)における、無人のラストショットのように。あるいは『欲望』で拡大=ブロー・アップされた殺人現場の写真が、拡大されたにも関わらず、逆に見えなくなってしまったように。近づけば近づくほど、本質が見えなくなっていく。だからこそマークは、セスナ機に乗ってロサンゼルスという街を俯瞰で見る。遠くから見ることによって、マークはロサンゼルスという都市を再発見する。
アントニオーニにとって距離の探求は、感情の接触に関する探求でもある。砂埃をあげ、疾走する車に乗るダリアと、上空をセスナ機で飛ぶマーク。2人の出会いのシーンが何度見ても素晴らしい。走っている車にぶつかりそうなほどの低空飛行で、何度もダリアに煽り運転をするマーク。ダリアは次第にスリリングなゲームを仕掛けられていることを理解する。興奮していく。青空に向かって何度も急上昇する機体。高揚する2人の魂。このシーンはゲームであり、挑発であり、反響であり、求愛のダンスのようでもある。昆虫同士の求愛、あるいは人間の原始的な求愛のジェスチュア。出会うはずのなかった2人の出会いが描かれていく。そして月面のような砂漠に向かうことで、ゼロ距離という消失点に到達する。