© 2025. Distinto Films SLU, Nexus Creafilms SL, A Contracorriente Films SL, Diverso Films AIE
『幸せの、忘れもの。』静けさの中に宿る強さと、異なる感覚世界が交差する瞬間の尊さ
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静けさの奥に広がる“もうひとつの世界”
スペインの陽光が降りそそぐ穏やかな田舎町を舞台にした『幸せの、忘れもの。』は、日常の静けさの奥に広がる“もうひとつの世界”を、繊細かつ確かな筆致で映し出す作品である。主人公アンヘラは、生まれつき耳が聞こえない”ろう者”として、光の揺らぎや空気の振動、触れた温度といった感覚を頼りに世界を受け取りながら生きてきた。陶芸家として土と向き合う彼女の営みには、音に依存しない感受性の豊かさが静かに息づいており、その所作のひとつひとつが、彼女の内面と深く結びついている。
そんな彼女の人生に訪れる大きな転機が、妊娠である。新たな命を授かった喜びは確かに存在するものの、それと同時に、言葉にしがたい不安が胸の奥に広がっていく。「母として、必要な瞬間を聞き逃してしまうのではないか」。その懸念は、周囲にはなかなか共有されにくい極めて個人的で切実な感覚だ。音が前提とされる社会の中で、彼女は母になるという未知の領域に足を踏み入れていく。

『幸せの、忘れもの。』© 2025. Distinto Films SLU, Nexus Creafilms SL, A Contracorriente Films SL, Diverso Films AIE
パートナーのエクトルは聴者であり、これまで二人は互いの違いを理解しようと歩み寄ってきた。しかし、娘オナの誕生をきっかけに、これまで表面化していなかった価値観の差異が、ゆっくりと輪郭を持ち始める。アンヘラは娘を手話という文化の中で育てたいと願い、一方でエクトルは音声言語の世界で不自由なく生きてほしいと望む。どちらの想いも、娘を思うがゆえの愛情から生まれている。それにもかかわらず、その方向性の違いは、二人の間に容易には埋められない距離を生み出していく。