我々は、みんな宇宙人だった
思えば子どもの頃の暁太郎は、いつも好きな黄色いシャツを着て、教室の真ん中にいた。ところがクラスで孤立していくにつれて、その服の色はどんどんくすんでいく。
失われたのは、色だけじゃない。暁太郎は、恐竜の絵を描くのが得意な少年だった。だが大人になった彼は、公園に置かれた恐竜の遊具を見上げても、それが何という恐竜なのか思い出せない。あれほど夢中で描いていたはずなのに。名前を失った恐竜は、なんだか得体の知れない宇宙人のようにも見えてくる。
やがて暁太郎は、タクシー運転手になる。ティッシュひとつ配れなかった男が、今は客を目的地まできっちり送り届けている。届けられなかった男が、届けられる男になった。しかも、そのタクシーの車体は黄色い。特別な少年に戻れたわけではないけれど、くすんでしまった好きな色を、彼は毎日の仕事の中に取り戻したのだ。

『我々は宇宙人』©NOTHING NEW, MIYU PRODUCTIONS
ラストの舞台は、高速道路の分岐点。黄色いタクシーを運転する暁太郎と、家族を乗せた車を運転する翼。二台の車が、同じ道路の上に並んで走る。見上げる者も、見下ろす者もいない。二人はようやく、同じ目線にたどり着いた。
二台の車が別々の車線に分かれていく瞬間、暁太郎が窓から「じゃーねー!」と叫ぶ。翼も「じゃーねー!」と叫び返す。仲直りしたわけでも、縁を切ったわけでもない。子どもの頃、下校のたびに交わしていた、なんてことない挨拶だ。
それにしても、なぜタイトルが『我々は宇宙人』なのだろう。たぶん宇宙人とは、地球に馴染めない者のことではなく、地球人のふりをする方法をまだ知らない者のことだ。
翼は、そのふりを誰よりも早く覚えた子どもだった。輪郭をなぞり、将来の夢の欄を空け、「普通」の型に自分を流し込んで、どうにかアオハルをサバイブする。一方の暁太郎は、ふりの仕方がどうしてもわからない。枠からはみ出した文字のまま、剥き出しの自分で教室に立ち続けてしまった。二人の違いは、ふりを覚えるのが早かったか、遅かったか、ただそれだけ。暁太郎がその方法を身につけるまでには、三十年という長い助走が必要だった。
大人になるとは、地球人のふりが上手になっていくことなのかもしれない。黄色いタクシーのハンドルを握る暁太郎も、家族を乗せて走る翼も、今ではすっかり地球人の顔をしている。けれど、その顔の下には今も、ふりの仕方を知らなかったあの頃の子どもがいる。
我々は、みんな宇宙人だった。そして、たぶん今も、地球人のふりをしながら生きている。
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
『我々は宇宙人』
大ヒット上映中
配給:TOHO NEXT NOTHING NEW
©NOTHING NEW, MIYU PRODUCTIONS